鎌倉古道下道・大手町から曳舟 


 歩行時間:行動時間 6:16、歩行時間 5:28
 歩行距離:16.1km
 累積標高差:+30m、-33m
 往路:JR東海道線・東京駅、復路:京成・曳舟駅
 訪問日:2025年6月6日

 

 コースタイム


大手町9:14~和田倉門~将軍塚9:30~日本橋9:50~福徳神社~宝田恵比寿神社10:10~耕書堂跡~薬研堀不動院~浅草公園・浅草見付跡~銀杏岡八幡神社11:01~第六天榊神社~鳥越神社11:14~寿松院~西福寺~法林寺~蔵前神社11:46~榧寺~雷門12:07~浅草神社~被官稲荷神社~つけ麺工房浅草製麺所12:57~本龍院(街乳山聖天)13:13~山谷掘公園~慶養寺~本龍寺~今戸神社13:30~称福寺~廣楽寺~安昌寺~蓮窓寺~保元寺~玉蓮院13:59~立浪部屋~福寿院~橋場不動尊~白髭橋~白髭神社14:35~東武曳舟駅~京成曳舟駅15:30

 

 大手町~鳥越神社~浅草神社~本龍寺~今戸神社~立浪部屋~京成曳舟駅


鎌倉道下道の続きは東京駅からです。通勤客や観光客で賑わう大手町から将軍塚へ、ビルの谷間には平安時代の武将、平将門を祀る古い塚があります。平将門は神田神社の御祭神として祀れていますが、菅原道真崇徳天皇とともに日本三大怨霊としても恐れられています。

かつてこの地にあった大蔵省の庁舎の建て替え、GHQの駐車場造成などで塚の移転などが行われようとすると事故などが発生し、将門の祟りと言う歴史が残るところです。

東京駅
東京駅丸の内口
大手町の将軍塚
立ち並ぶビルの中に将軍塚
日本橋川の上に高速道路
日本道路元標
日本橋に道路元標

将軍塚からは日本橋へ、日本橋川の上に架かる高速道路は地下に埋設する工事が計画されています。ここは東海道や国道6号線、国道4号線の起点となるところです。道端の里程標によると水戸までは118km、宇都宮まで107kmの距離があると言います。

日本橋には三越本店があります。入り口には三越呉服店の赤いのれんがかかっていました。

福徳神社はビルの間の神社、江戸幕府公認の富くじ興行が行われていた神社です。また昨今では人気アイドルが訪れたことで「推し活神社」、ライブなどのチケット当選を祈願する「チケ運神社」とも呼ばれ若者に人気の神社と言います。

日本橋三越に越後谷ののれん
福徳神社の拝殿
ビルの谷間に福徳神社の拝殿
耕書堂跡は大河ドラマの舞台
旧日光街道は馬喰横山の問屋街

道は旧日光街道を西へ、宝田恵比寿神社を越えると今年の大河ドラマ「べらぼう」の舞台となった耕書堂跡の案内板がありました。

この付近は馬喰横山町の繊維問屋街です。たくさんの商品を店先に並べた問屋さんが店を開いていました。

石段の上に塔のような本堂が祀られた薬研堀不動院を越えると神田川を渡る浅草橋です。川岸の船宿は花火船、お花見船などの屋形船が泊まるところです。

薬研堀不動院の拝殿
赤い奉納のぼりの石段の上に薬研堀不動院
浅草橋は屋形船の船着き場
銀杏岡八幡神社の石鳥居
銀杏岡八幡神社の石鳥居と参道
榊神社の石鳥居
玉垣をめぐらせた榊神社の石鳥居

銀杏岡八幡神社を越えると第六天榊神社です。第六天神宮と呼ばれ神仏習合の時代には、他化自在天(第六天魔王)を祀る神社でした。現在は第六天榊大神祀っていると言います。

第六天榊神社を越えると鳥越神社です。翌日には例大祭が行われるということで拝殿には五色の旗が飾られています。

第六天榊神社の拝殿
石段の上に第六天榊神社の拝殿
鳥越神社の奉納提灯
境内に神社マップ
鳥越神社の由緒書き

境内では都内最大級と言う千貫神輿の蔵出しが行われていました。祭り半纏を着た多くの人が参加する下町のお祭りが今も続いているところです。

この周辺は寿松院西福寺法林寺など多くの神社やお寺があるところです。

境内で御神輿さんの蔵出し
鳥越神社の拝殿
五色の幟がはためく鳥越神社の拝殿
蔵前神社の石鳥
蔵前神社の石鳥と拝殿
蔵前神社の拝殿
蔵前神社の拝殿

蔵前神社石清水八幡宮を勧請した神社で、江戸時代には境内で相撲の興行が行われ雷電などの力士が活躍したところです。境内には古典落語元犬のゆかりの神社の案内もありました。

榧寺を越えると海外からのお客さんで賑わう浅草雷門です。観光客を相手に人力車を引く若者がスマホを見ながら案内をしています。若い女の子の人力車もありました。

古典落語元犬ゆかりの神社
江戸文化道場の駒形どぜう
浅草寺の雷門
浅草神社の鳥居
浅草神社の石鳥居と石柱

たくさんの人で溢れる浅草寺の裏には浅草神社がありました。江戸三大まつりの一つ三社まつりの神社です。ここもまた海外からのお客さんで賑わっているところで、レンタルの和服を着て付近を散策を楽しむ人が多いようです。

浅草神社の境内には被官稲荷神社がありました。その名が示すように就職や出世のご利益があるパワースポットと言います。覆い堂の中に祀られた小さな神社は浅草の町火消の親分に 新門辰五郎が京都伏見稲荷を勧請したものと言います。

浅草神社の拝殿
浅草神社の朱塗りの拝殿
被官稲荷神社の石鳥居
被官稲荷神社の石鳥居と覆い堂
覆い堂の中に小さな社
昼食は担々つけ麺

少し遅くなった昼食は浅草製麺所の坦々つけ麺です。太めの麺と坦々スープ、少し濃いめのスープですが思いのほか辛くはなかったです。

言問橋を越えた付近は奥浅草と呼ばれお寺や神社が多いところです。

街乳山聖天は歓喜天を祀る神社です。歓喜天はどのような願いも叶えてくれるとされ豊臣秀吉や徳川家康なども深く信仰していたと言います。参拝では大根と巾着袋をお供えするとされ本堂の脇にはお下がりの大根が置かれていました。

言問橋の先にスカイツリー
街乳山聖天の神門
街乳山聖天の神門と石段
境内に二十八地蔵尊
聖天さまおさがりの大根

近くには山谷掘り公園があります。この近くにはかつて山谷騒動があった山谷のドヤ街があったといいます。しかしこの近くにはその面影は見当たらないようです。

慶養寺本龍寺を過ぎると今戸神社です。ここは今戸焼発祥の地、また沖田総司の終焉の地とされている神社です。

山谷掘り公園に今戸橋
山谷掘り公園の案内板
慶養寺の山門
慶養寺の山門に仁王像
今戸神社の石鳥居
今戸神社の石鳥居と玉垣

新選組最強の剣豪と言われた沖田総司は結核を患い鳥羽伏見の戦いののち江戸に送られました。その後、医師の松本良順がこの場所で沖田総司の病の治療を行っていたことから今戸神社付近が沖田総司終焉の地とされているようです。

今戸焼は人形、植木鉢、日用品や瓦などの焼き物でしたが今は生産者も少なくなっているようです。拝殿には今戸焼の大きな招き猫がありました。

お神輿の蔵出し
今戸神社の拝殿
今戸神社の拝殿に大きな招き猫
立浪部屋
橋場不動堂
五色の万幕が張られた橋場不動堂

奥浅草通り周辺は称福寺廣楽寺安昌寺蓮窓寺保元寺玉蓮院福寿院など多くのお寺が軒を並べるところです。

福寿院の隣には大相撲の立浪部屋があります。立浪部屋の親方は元小結の 旭豊、横綱の豊昇龍のほか多くの若手力士がいるようです。

福寿院を過ぎると橋場不動尊です。関東大震災や第2次世界大戦の戦火から周囲を守ったことから火伏の不動と呼ばれています。

白髭橋
隅田川に架かる白髭橋
隅田川の先にスカイツリー
白髭神社の境内
白髭神社ではお祭り
お祭りの屋台が出ています

白髭橋で隅田川を渡ります。強い風が吹き抜けている川の先にはスカイツリーの尖塔がそびえていました。

道端には白い白髭神社の奉納幟がはためいています。この神社もこの週末に例大祭が行われているようで境内には出店が出ていました。

公園に艇庫 とレガッタの案内板
東武曳舟駅

かなり頻繁に地図の検索をしていたのかスマホンの電地が足りなくなりました。今回の街道歩きは曳舟橋で終了としました。街には案内図も少なく、公衆電話もほとんどありません。便利な反面、スマホがなければ何もできない現代社会になったものです。

 

 コースGPSmap


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 その他のコース・山行記録


 菅原道真(すがわらのみちざね)

平安前期の公卿、学者、文人。845~903年。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を押さえるため藤原基経の死後蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されましたた。延喜元年(901年)藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され配所で没しました。

のちに天満天神として崇拝されました。

 

 崇徳天皇(すとくてんのう)

第75代の天皇、在位1123年1月28日~1141年12月7日。鳥羽天皇の第1皇子。鳥羽法皇の死後、後白河天皇と争い保元の乱に敗れて讃岐(さぬき)に流されました。死後は怨霊として恐れられた。墓所は香川県坂出の白峯陵(しらみねのみささぎ)。陵墓は香川県坂出市青海町の白峯陵。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇の第1皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。陵墓は京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町の安楽寿院陵。

 

 鳥羽天皇(とばてんのう)

第74代の天皇、在位1107年7月19日~1123年1月28日。堀河天皇の第1皇子。崇徳・近衛・後白河の三代にわたって1129年から27年間、院政を行う。崇徳上皇と対立して後白河天皇を擁立、保元の乱の因となった。陵墓は京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町の安楽寿院陵。

 

 後白河天皇(ごしらかわてんのう)

第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第4皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。陵墓は京都府京都市東山区三十三間堂廻リの法住寺陵。

 

 保元の乱(ほげんのらん)

保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝・平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。

 

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