鶴ヶ峰駅10:20~畠山重忠公碑10:45~首塚10:55~六ツ塚11:05~鶴ヶ峯神社11:15~駕籠塚11:25~白根不動11:50~白糸の滝12:00~白根神社12:05~コープかながわ白根店~旭台中央公園12:45/13:25~中原街道13:55~長泉寺14:00、杉山神社14:05~中山駅14:10
鎌倉古道歩きの続きは鶴ヶ峰から、ここは鎌倉殿の13人にも登場した畠山重忠の乱の舞台となったところです。
畠山重忠は鎌倉時代の武将で源頼朝の挙兵に際して当初は敵対しますが、のちに臣従し治承・寿永の乱で活躍し、鎌倉幕府の御家人として重きをなしたと言います。北条時政の謀略により謀反の疑いをかけられ鎌倉へと向かう途中、鶴ヶ峰で北条義時らの軍と激突しました。鶴ヶ峰には畠山重忠の首塚や一族郎党134騎を葬ったと伝えられている6ツ塚があります。
たくさんの人で賑わう鶴ヶ峰駅前の商店街から旭区の区役所へ、ここの周辺はまだ紅葉が残る帷子川の遊歩道となっています。ここはまた横浜水道みちが通るところです。津久井の三井村用水取り入れ口から横浜市の野毛公園まで44kmの水道管が敷設されたと言います。水道管を敷設する道路に沿ってトロッコで運搬した軌跡が水道道として今も歩かれています。
厚木街道の交差点には畠山重忠公碑があります。区役所の近くには鎧の渡しや首洗い井戸、首塚があります。
鎧の渡しは帷子川沿いにあったものとか、現在は区役所の駐車場フェンスの側に案内板だけがありました。
厚木街道を越え住宅地の中を僅かに歩くと六ツ塚です。畠山忠重とともに玉砕した郎党134騎は六つの塚に分け埋葬されたと伝えられています。
住宅地の中を歩く鶴ヶ峰神社です。地元の鎮守の神社なのでしょうが由緒などは判りません。境内からは南側の視界が開け万騎ヶ原の低い稜線が見えていました。
北条方の軍勢一万騎がここに布陣したことから万騎ヶ原と名付けられたと言います。ここからはその軍勢が見えていたのでしょう。
近くには駕籠塚があります。一度住宅地の中を下って登り返しましたが参道脇からも行けるようでした。
畠山忠重の妻、菊の前は足立遠元の娘。二俣川の戦場に駆けつけるものの重忠の戦死を知ると自害、駕籠のままこの地に埋葬されたと伝えられています。
厚木街道から道を左に、白根通りをしばらく進むと白根公園です。ここは帷子川の支流、中堀川が土削った渓谷です。
社伝によると前九年の役において源義家が兜の中に不動明王像を納め奥州に向かい戦勝を上げたとされ、鎌倉権五郎景政に命じて社殿を造立し、この坐像を祀ったとされるところです。
境内には不動堂、渓谷の中の滝は源義家が勝利を祈願し身を清めたと伝わる白糸の滝です。
白糸の滝から急な坂道を登って行くと木立の中に白根神社が祀られています。最近、改築が行われたようでコンクリートの支柱に新しい木の社、往時の屋根が載せられていました。このような改築方法はなかなか見なられないもの、耐震構造としては効果があるのでしょうが古い社を残すためには色々努力が必要なのでしょう。
白根通りは住宅地の中に続く道、コンビニやファミレスなどはなかなか見つかりません。途中のスーパーに立ち寄りお弁当をゲットしましたが、腰を下ろせそうな公園もなかなか見つかりませんでした。
道を右に折れ、中白根の住宅地の中を登って行きます。ようやく見つけた旭台中央公園でお昼にしました。近くの子供連れのお母さんが遊びに集まっています。自転車で集まった中学生の男の子がサッカーに興じていました。
公園からも住宅地の中を登って行きます。登り詰めた先は緩やかに下って行きます。左手には長坂谷公園、さらにその先には中原街道が通ているようでした。
やがて道は寺山町で中原街道を越え細い住宅地の中へ、しばらく歩くと県道青砥上星川線です。県道を越えると長泉寺と杉山神社が祀られていました。
杉山神社は鶴見川水系沿いに点在する神社です。旧武蔵国における式内社の一社で、その論社は横浜市、川崎市、町田市、稲城社など数十社が存在していると言います。神奈川県神社庁のホームページによるとこの杉山神社は横浜市緑区中山町718番地、祭神は五十猛命(いたけるのみこと)、現地には由緒書きもなく詳しいことは判りません。拝殿の鈴緒には赤や黄色、水色などの紐が吊るされていました。
柱宅地の中を進むと横浜線の踏切、駅前の飲食店などの先に中山駅にバスターミナルがありました。ここには地下鉄グリーンラインも乗り入れています。
グリーンラインは中山駅と日吉駅を結んでいます。2030年ごろにはセンター駅から分かれるブルーラインがあざみ野駅から新百合ヶ丘駅へと延伸する計画が動いているようです。便利になれば良いものです。
1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。
1163~1224年、鎌倉幕府第2代執権。在職1205~1224。北条時政の次男。父時政の失脚ののち執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。姉政子と協力して承久の乱を鎮圧し、北条氏の執権政治を固めた。
平安末期の1051年から1062年の12年、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとうら)の反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築く契機となった。
平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。
1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。
保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。
1221年(承久3)後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件。後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流され、新補地頭の設置、六波羅探題の設置など幕府の権力は西国でも強化された。
平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。
第72代の天皇、在位1072年12月8日~1086年11月26日。後三条天皇の第1皇子。譲位後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を行った。深く仏教に帰依し社寺参詣もしきりに行った。陵墓は京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町の成菩提院陵。
平安末期の1051年から1062年の12年、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとうら)の反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築く契機となった。
平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。
平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。
平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。