鎌倉駅10:05~鶴岡八幡宮10:20~歓喜天10:35~巨福呂坂切通10:55~圓應寺10:55~東慶寺11:15/25~成福寺11:55~厳島神社12:00~離山富士見地蔵尊12:15~大船駅12:25/13:00~青木神社13:15/20~笠間中央公園三角点13:25~法安寺13:45~いたち川道標14:05~小菅ヶ谷町14:10
鎌倉街道は鎌倉幕府のある鎌倉と地方を結んだ街道です。古代の官道や地方道をつなぎ、上道、中道、下道の主要な幹線道が整備されました。鎌倉の御家人は「いざ鎌倉」となった時、この街道を利用し鎌倉にはせ参じたと言います。
上道は新田義貞の鎌倉攻めの古戦場、分倍河原まで歩きましたがその先は府中を通り高崎、さらには越後へと続いていると言います。下道は鎌倉から朝比奈の切通、保土ヶ谷から松戸へ、その先は日光街道に続いていました。今回は中道、巨福呂坂から蒔田、新宿を通り古河へと続いていると言います。
たどり着いた鎌倉の駅前、平日の曇り空と言うこともあり駅前はあまり人も多くありません。何時も観光客でにぎわう小町通りの人出もまばらでした。
鶴岡八幡宮脇の県道から道を左に折れると巨福呂坂の旧道です。鉄柵で覆われた巨福呂坂送水管路隧道はかつての日本海軍の導水路、中津川の半原から横須賀まで横須賀水道みちが敷かれていたと言います。
ここを右に折れると旧巨福呂坂、民家の先で道は廃道になっていますが鎌倉七切通の一つ巨福呂坂切通があったところです。
道端には青梅聖天社があります。切り立った岩の下に祀られた社には双身の歓喜天が祀られています。
県道に戻り舗装道路を登って行くと県道の巨福呂坂切通しです。新田義貞の鎌倉攻めでは堀口貞満を大将とする新田勢と、長崎高重の鎌倉勢が激戦を繰り広げたと言います。
多くの観光客が行きかう県道を下って行くと圓應寺です。本尊の閻魔大王を中心に十王が祀られています。
十王は死後冥界で出会う十人の王で、生前の行いを裁く地獄の裁判官と言います。
たくさんの観光客でにぎわう建長寺を越えると東慶寺です。ここは鎌倉三十三観音霊場三十二番のお寺、北条時宗夫人が出家して開山した尼寺で多くの女性が助けを求めたという駆け込み寺です。
本堂には釈迦如来像、すぐ傍の松岡宝蔵には観音立像が祀られていました。
円覚寺を越え車の流れも多いを道を進むと小袋谷交差点です。道端には古い石塔、崩れかけた石面には右とつか道・左藤さわ道と刻まれているようです。
道を右に折れ線路を渡ると成福寺、鎌倉三代執権北条泰時の子泰次により開かれた鎌倉唯一の浄土真宗の寺です。
北条泰時は承久の乱において鎌倉幕府の総大将となり京へ攻め上ったと言います。また日本最初の武家奉典、御成敗式目を制定したことでも知られています。境内には庚申塔がありました。寛永10年の庚申塔は鎌倉の有形文化財にも指定されています。
さらに住宅地の中を歩いていくと離山富士見地蔵尊、鎌倉古道沿いにあった古い地蔵堂で道端には古い石像が祀られえていました。
時計はすでに12時近く、大船の駅前でお昼ご飯です。昼食時と言うこともありたくさんの人で駅前は賑わっていました。
大船は三菱電機、東芝、資生堂工場など企業が集まっていたところです。資生堂工場が撤退した跡地には大きなマンション、芝浦メカトロニクスの大きな建物は半導体関連の技術が集まるところのようです。
120段の石段の上には笠間の鎮守として祀られた青木神社があります。拝殿の前には夏越の大祓い、茅の輪くぐりがありました、疫病が流行したとき茅で輪を作り腰に付けると疫病から逃れるとか。まさに現代の疫病、コロナからも守ってくれる茅の輪なのでしょうか。
さらに住宅地の中を歩くと右手に法安寺です。参道には創建は以来の石塔と言う西国、四国、秩父、坂東百八十八ヶ所供養塔がありました。境内には吾唯足るを知ると刻まれた知足の手水鉢がありました。
この先はいたち川を歩いた時に見かけた新橋の古い石標です。歩行距離は約9km、少し短いようですが小菅ヶ谷町バス停から戻ることにしました。
1251~1284年、鎌倉幕府八代執権。時頼の子。文永・弘安の両度の元寇に際し強硬に幕政を指導してこれを退けた。また禅宗に帰依して宋から無学祖元を招き円覚寺の開山とした。
1183~1242年、鎌倉幕府第3代執権。1221年承久の乱には幕府軍の大将として上京、引き続き六波羅探題として戦後の処理に当たった。1224年執権。連署・評定衆を置いて合議制を制度化し、1232年御成敗式目を制定して武家政権を確立した。
1221年(承久3)後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件。後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流され、新補地頭の設置、六波羅探題の設置など幕府の権力は西国でも強化された。
鎌倉時代、中国を支配していたモンゴル軍による日本侵攻。文永の役(1274年)と弘安の役(1281年)の2回があり、いずれも北部九州が戦場となった。弘安の役では約4400隻の元寇船が襲来し鷹島沖に集結したが停泊中に暴風雨に遭遇して多くが沈没したとされる。元軍を撃退したこの暴風雨は神風と呼ばれた。
鎌倉幕府は第8代執権北条時宗。文永の役後、博多湾沿岸の防備体制の強化、鎮西奉行の設置などを行なったため九州御家人には多大の軍事的、経済的負担を負わせ武士社会に深刻な状況を招いた。
1221年(承久3)後鳥羽上皇らが鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、執権北条義時を中心とする幕府軍に鎮圧された事件。後鳥羽・土御門・順徳の三上皇は配流され、新補地頭の設置、六波羅探題の設置など幕府の権力は西国でも強化された。
承久の乱後、京都の政情を監察しかつ治安を維持するために設置した、政務・軍事を統轄する執政官。南北二名を定員とし西国諸国の訴訟を聴断するとともに、有事の際は在京人をはじめとする京都近国の御家人を指揮する権限が与えられていた。
第82代天皇(在位:1183年8月20日~1198年1月11日)高倉天皇の第4皇子。祖父後白河法皇の院政下、神器継承なしに即位し、譲位後、土御門・順徳・仲恭天皇3帝にわたって院政を執った。北条義時追討を謀って承久の乱を起こしたが失敗、隠岐に流された。蹴鞠・琵琶・笛などの芸能や和歌にもひいで新古今集を勅撰した。陵墓は京都府京都市左京区大原勝林院町の大原陵。
1163~1224年、鎌倉幕府第2代執権。在職1205~1224。北条時政の次男。父時政の失脚ののち執権となり、和田義盛を滅ぼして侍所別当を兼ねた。姉政子と協力して承久の乱を鎮圧し、北条氏の執権政治を固めた。
承久の乱後、京都の政情を監察しかつ治安を維持するために設置した、政務・軍事を統轄する執政官。南北二名を定員とし西国諸国の訴訟を聴断するとともに、有事の際は在京人をはじめとする京都近国の御家人を指揮する権限が与えられていた。