将軍塚 


 観光地の種類:史跡
 所在地:東京都千代田区大手町1丁目2ー1
 訪問日:2025年6月6日

 

『平安時代の武将 平将門 の首を供養するために建てられたとされています。

平将門は、関東で反乱を起こしたことで知られていますが、討伐され、その首は京都で晒された後、怨念によって故郷の東国へ飛んでいったという伝説があります。その首が落ちた場所の一つが現在の将門塚とされています。』(copilot 2025/6)

将門塚の石柱
将門塚
ビルの谷間に将門塚

 

《 将軍塚》 現地案内板

神田明神のご祭神である東国の英雄・平将門公の御首をお祀りしております。平将門公は、承平天慶年間(九三一~九四六)に活躍され、武士の先駆けとして関東地方の政治改革に尽力され、弱きを助け強きを挫くその性格から民衆より篤い信望を受けていました。

今を去ること一〇七五年ほどの昔、桓武天皇五代の皇胤鎮守府将軍・平良将の子将門公は、下総国に兵を起こし、たちまちにして坂東八ヶ国を平定、自ら平新皇と称して政治の革新を図りましたが、平真盛と原秀郷の奇襲をうけ、馬上陣頭に戦って憤死しました。享年三十八歳、世にこれを天慶の乱といいます。

その後、将門公の首級は京都に送られ獄門に架けられましたが、三日後白い光を放ち、東方に飛び去り、武蔵国豊島郡芝崎に落ちました。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったとされ、村人は恐怖し、塚を築いて埋葬しました。これが、この将門塚と語り伝えられています。その後も度々、将門公の怨霊が祟をなすため徳治二年、時宗二祖真教上人は、将門公に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し、 塚前に板石塔婆を建て、日輪寺にて供養し、さらに傍の神田明神にその霊を合わせ祀ったところ、ようやく将門公の霊魂を鎮まり、この地の守護神になったといわれています。

天慶の乱は平安朝の中期に当たり、京都では藤原氏が政権をほしいままにし、我が世の春を謳歌していました。遠い坂東では国々の司が私欲に走り善政を忘れ、下僚は収奪に民の膏血をしぼり、加えて洪水や旱魃が相続き、人民は食なく衣なく、その窮状は言語に絶するものでした。その為、これらの力弱い多くの人々が、将門公によせた期待と同情とは極めて大きなものがあり、今もって関東地方には数多くの伝説と将門公を祀る神社があります。このことは将門公が歴史上朝敵と呼ばれながらも、実は郷土の勇士であったことの証です。また天慶の乱は、武士が台頭する烽火であったと共に。弱気を助け強きを挫く江戸っ子の気風へと繋がり、今日の社会にも大きな影響を与えています。

江戸時代の寛文年間、この地は酒井雅楽頭の上屋敷の中庭であり、家舞伎「先代萩」でられる伊達騒動で伊達安芸と原田甲斐の殺害された場所でした。明治時代、大蔵省再建事業の際に崩されるなどしましたが、その後、昭和になり史蹟将門塚保存会が結成され、昭和三六年(一九六一)の第一次整備工事を皮切りに、幾多の変遷を経て、令和三年(二○二一)に第六次整備工事として、現況のように整備されました。

将門塚は神田明神・創建の地でもあります。毎年九月彼岸の日には「将門塚例祭」が執り行われ、五月の神田祭の時には必ず鳳輦神輿が渡御して神事が行われる重要な場所です。将門塚保存会神輿も同保存会の方々により担がれており、現在も同保存会により大切に維持され、神事が行われています。

史蹟将門塚保存会 江戸総鎮守神田明神

 

 訪問者数 今月:2件
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