保元寺 


 寺社の種類:浄土宗の寺院
 山号:帰命山、院号:薬王無量院
 創建の時期:宝亀元年(770年)、開山:智海
 札所:ー
 所在地:東京都台東区橋場1丁目4ー7
 訪問日:2025年6月6日

 

東京都台東区橋場にある浄土宗の寺院です。

宝亀元年(770年)、智海によって開山。保元元年(1156年)に元号にちなみ「保元寺」と改称。 法相宗、真言宗、時宗を経て、永享年間(1429年~1441年)に浄土宗へ転宗しました。江戸時代には徳川幕府の政策により「法源寺」と改称されるも、大正時代に「保元寺」に戻ります。

保元寺の山門
保元寺の山門と境内
保元寺の縁起
榎本武揚一族の墓
境内に地蔵堂
保元寺の本堂
境内に本堂

箱館戦争に敗れた榎本武揚が釈放後、保元寺で謹慎生活を送りました。境内には榎本武揚一族の墓があります。

 

 《保元寺の縁起》現地の石碑

保元寺は奈良時代の宝亀元年(西暦770年)に比の地に創建された都内でも数少い古刹(古寺)である。当時都鳥鳴く隅田川に面した此の地は砂尾の石浜と云われ、保元寺も砂尾の石浜道場と呼ばれていた。

とき移り平安時代の保元元年(西暦1156年)、後白河天皇の勅許を得てときの年号を寺名として保元寺と改称した。喜元元年(西暦1305年)には時宗の宗祖一遍上人もしばし保元寺にとまり修行している。

南北朝時代、足利尊氏が新田義興と此の地で合戦し敗走したと太平記巻三十一に「石浜の合戦」として記されている。

その後、幾度もの戦いに保え寺はまったく荒廃し、ただ凄涼たる武蔵野の風にさらされていたが、室町時代の宝德元年(西暦1449年)に保元寺の厂史を惜しみ、芝の増上寺初代法主、酉誉聖聡上人が弟子の惣誉酉公大和尚に保元時を再興させた。この時から保元寺は浄土宗の寺となったが、一時は法源寺と用字を変えたときもあった。

境内には延久2年(西紀1070年)に亡じた鎌倉権大夫景通の古塔、木曽義仲とのいくさ白髪を黒く染めて奮戦した斉藤実盛の石仏、江戸時代の蘭学者で画師谷文兆の師でもあった日本最初の洋風画家の北山寒厳の墓と古碑、江戸幕府の医?で日本最初の天然痘予防接種をした桑田立斉の墓と古碑などがある。また厂代住職の古塔、寛文の頃より元禄その他の年号を刻された石仏など多数が現存する。

保元寺は浄土宗別格であり正しくは帰命山藥王無量寿院保元寺と称する。

此の碑は、一代の書聖栖原祖明先生の生誕九十年を記念し江戸時代よりの檀徒、栖原家の志により建立した。先生は芝、増上寺の林祖洞師の高弟にして、生涯一万冊の名蹟に●書を発頼し以来六十年幾多の困難に耐え、遂に成満しこれを駒沢大学図書館に寄贈された。

先生は比の浄業大成の後昭和47年5月5日永眠され当寺に葬られた行年ハ十才

 

 浄土宗(じょうどしゅう)

法然上人を宗祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の聖典とするが、観無量寿経を重視して専修念仏によって極楽浄土への往生を宗旨とする。総本山は京都の知恩院。

 

 阿弥陀如来(あみだにょらい)

大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏様。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり、浄土宗浄土真宗時宗などの浄土教宗派が成立した。

阿弥陀如来像は質素な形で如来の通相と呼ばれる姿をしています。小指を除く三指と親指で輪にした九品来迎印(くぼんらいごういん)を結んでいるのが特徴です。

 

 法然(ほうねん)・円光大師・黒谷上人

鎌倉初期の僧。浄土宗の開祖。1147年比叡山で源光の門に入り天台を学んだ。1150年教学などに対する疑問を生じ西塔黒谷の叡空のもとに隠棲し、法然房源空と称した。

 

 浄土宗(じょうどしゅう)

法然上人を宗祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の聖典とするが、観無量寿経を重視して専修念仏によって極楽浄土への往生を宗旨とする。総本山は京都の知恩院。

 

 浄土真宗(じょうどしんしゅう)

法然上人の弟子の親鸞上人を開祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の経典とするが、特に無量寿経により阿弥陀仏の本願の信心を重視し、称名念仏は仏恩報謝の行であるとするのを宗旨とする。門徒宗、一向宗とも呼ばれます。

 

 時宗(じしゅう)遊行宗(ゆぎょうしゅう)

日本仏教の一宗派。念仏系の宗派で1276年一遍(いっぺん)が開いた。阿弥陀経を根本経典とし経中の臨命終時の言葉を宗の名とした。

 

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