新田金山城 


 城郭の構造:連郭式山城
 築城の時期:文明元年(1469年)、岩松家純
 廃城の時期:天正18年(1590年)
 主な城主:土肥氏、岩松氏、由良氏、高山定重、宇津木氏久
 所在地:群馬県太田市金山町40-106
 訪問日:2023年4月3日

 

太田市の金山に築かれた山城です。日本百名城、関東七名城にも選ばれています。土造りの山城が多い関東では珍しい石垣造りの城で上杉謙信、武田勝頼など10回以上攻められた歴史がありますが落城したことがない堅固な城でした。

実城と呼ばれる本丸を中心に尾根沿いに出丸、曲輪などが連なり、敵の進路を防ぐための堀切や石積みが巧みに設けられています。

応仁3年(1469年)新田氏の一族、岩松家純が五十子陣(埼玉県本庄市)を退き金山城に入りました。

享禄元年(1528年)横瀬泰繁・成繁親子が下剋上により城主の岩松昌純を殺し実権を握ります。その後、由良に改姓に変更します。由良成繁の娘は忍城城主・成田氏長に嫁ぎ、その子はのぼうの城で武勇が伝えられる甲斐姫と言います。

天正2年(1574年)上杉謙信が金山城を侵攻、天正8年(1580年)武田勝頼が新田・館林地域を攻撃します。

天正12年(1584年)由良国繁・長尾顕長兄弟は金山城は北条氏に降伏、開城したとされます。天正15年(1587年)北条氏が金山城を普請します。

天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐では前田利家らが金山城を接収します。北条氏滅亡の後、金山城は廃城となりました。

金山城址周辺の案内板
金山城址の案内板
金山城址の東屋
雑木林の中の遊歩道
旧通路の案内板
西矢倉台西堀切の案内板
西矢倉台西堀切
堀切
西矢倉台下堀切の案内板
西矢倉台通路の案内板

ジグザグを切りながら金山城址線を登っていくと広い駐車場、道標に導かれながら尾根道を歩いていくと金山城の遊歩道です。ここから物見台、三ノ丸へと続く道には堀切や石垣などが続いています。

馬場下通路の案内板
馬場下通路の石垣
馬場下通路
馬場下通路・石塁の案内板
大手口馬場址
馬場曲輪の案内板
物見台からの展望
大堀切の案内板
月の池

大手虎口は寄せ手を圧倒するかのように積み上げられた石垣、軍用用水地として掘られた日ノ池、月ノ池は今も水をたたえていました。

大手虎口の石垣
かまど
大手虎口南上段曲輪
日の池
本城の案内板
新田神社の拝殿
御嶽神社の拝殿
金山城址の石柱
本丸跡の石柱
道端に五輪塔と石碑

実城は城主などの館があったところ、現在は新田神社御嶽神社が祀られています。新田神社は明治8年(1875年)創建された神社で、新田義貞公が祭られています。

 

関連記録・コース

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 武田勝頼(たけだかつより)

1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 前田利家(まえだとしいえ)

1538~1599年、戦国時代の武将。加賀藩の祖。幼少より織田信長に仕える。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家についたが、のち豊臣秀吉と和を結び、金沢に封ぜられた。五大老の一人として秀頼を補佐したが、秀吉没後一年にして死んだ。

 

 武田信玄(たけだしんげん)

1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。

 

 長篠の戦(ながしののたたかい)

1575年5月、長篠城の西方設楽原で行われた織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍との戦い。連合軍は多量の鉄砲を用いて大勝利を得た。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 賤ヶ岳の戦(しずがたけのたたかい)

1583年4月、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉柴田勝家を破った戦い。本能寺の変後、織田信長の次男信雄を奉ずる秀吉と、三男信孝を奉ずる勝家との対立が原因。勝家・信孝は自殺し秀吉の全国制覇への基礎が築かれた。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

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