今治城(吹上城、吹揚城) 


 城郭の構造:輪郭式平城(海城)
 築城の時期:慶長7年(1602年)、藤堂高虎
 廃城の時期:明治6年(1873年)
 主な城主:藤堂氏、松平(久松)氏
 所在地:愛媛県今治市通町3丁目1?3
 訪問日:2011年10月23日、2017年9月28日

 

今治城は慶長9年(1604年)、伊予20万3千石の大名、藤堂高虎が築城した海岸平城です。海水を引き入れる三重の堀をもつ城で日本三大水城の一つにも数えられています。

慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝っています。寛永12年(1635年)には松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩、久松松平氏の居城となりました。

明治維新の廃城令により解体破却され、現在の天守閣は昭和55年(1980年)鉄筋コンクリート造りで建てられたものです。

大手門から城内に入ると広い城内には藤堂高虎の銅像、中央には資料館となっている五層の天守閣がそびえています。天守閣の傍には吹揚神社が祀られていました。

今治城の城郭は観光用に再建されたもので往時の遺構は残っていないようです。再建された多門楼近くに大きな井戸が残っていますがそれ以外には往時を物語るものは見当たらないようです。

 

 訪問日:2011年10月23日

堀を巡らせた今治城
堀を巡らせた今治城
堀を巡らせた今治城
堀を渡り大手門へ
大手門
今治城の案内図
藤堂高虎の銅像
藤堂高虎像の後ろに天守閣
天守閣
天守閣
多門楼
大きな井戸

 

 訪問日:2017年9月28日

今治城の石碑
今治市街の案内板
堀をめぐらせた今治城
鉄御門
鉄御門と今治城の案内板
高麗門跡の案内板
鉄御門の礎石
礎石の発掘調査
今治城の案内図
山里櫓
鉄御門武具櫓
山里櫓の門
堀にかかる門と橋
山里櫓の門から見上げる天守閣
五層の天守閣
御欽櫓
蒼吹きの井戸
藤堂高虎像
今治城の案内板
天守閣の入り口
天守閣
天守閣からの展望
天守閣からの展望
関連記録・コース

 藤堂高虎(とうどうたかとら)

1556~1630年、安土桃山・江戸初期の武将。浅野長政羽柴秀長豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原・大坂の陣では徳川家康に属し、伊勢・伊賀など32万石に封ぜられた。

 

 藤堂高虎(とうどうたかとら)

1556~1630年、安土桃山・江戸初期の武将。浅野長政羽柴秀長豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原・大坂の陣では徳川家康に属し、伊勢・伊賀など32万石に封ぜられた。

 

 廃城令(はいじょうれい)

明治6年(1873年)明治政府において太政官から陸軍省に発せられた太政官達全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)、多くの城郭や武家地などは収公され官公庁用地として開発された。軍事施設として利用するか廃城となった城もある。

 

 浅野長政(あさのながまさ)

1547~1611年、安土桃山時代の武将。織田信長・豊臣秀吉に仕える。文禄の役に軍監として朝鮮に渡る。五奉行の一人。関ヶ原の戦いでは徳川方についた。

 

 羽柴秀長(はしばひでなが)豊臣秀長(とよとみひでなが)

1541~1591年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の異父弟。秀吉に従って軍功をたて大和郡山城主となった。温和な性格が衆望を集めよく秀吉の天下統一を補佐した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 浅野長政(あさのながまさ)

1547~1611年、安土桃山時代の武将。織田信長・豊臣秀吉に仕える。文禄の役に軍監として朝鮮に渡る。五奉行の一人。関ヶ原の戦いでは徳川方についた。

 

 羽柴秀長(はしばひでなが)豊臣秀長(とよとみひでなが)

1541~1591年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の異父弟。秀吉に従って軍功をたて大和郡山城主となった。温和な性格が衆望を集めよく秀吉の天下統一を補佐した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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