慶長年間、伊達政宗が青葉山に築造した平山城、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり仙台藩の政庁であった城です。
仙台藩は戊辰戦争では奥羽列藩同盟の盟主でした。会津藩とともに白河城攻防戦などを戦ったものの戦線を維持することが出来なくなり降伏します。一度の戦火を見ることもなかった仙台城もその後は明治初期から大正にかけてその大半が失われることになります。
護国神社が祀られた本丸跡には往時の御殿の縄張りが再現されています。その近くには仙台城を紹介する仙台城見聞館があります。
本丸跡には騎乗の伊達政宗像が建てられたくさんの観光客で賑わうところです。
また土井晩翠が仙台出身であったことから「荒城の月」のモデルとなった城とも言われています。懸崖造りの案内の傍に土井晩翠の案内板が建っていました。
1567~1636年、安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。戦後、仙台藩62万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣した。
1567~1636年、安土桃山・江戸初期の武将。仙台藩祖。隻眼・果断の故をもって独眼竜と称される。出羽米沢を根拠に勢力を拡大したが、豊臣秀吉に帰服、文禄の役に出兵した。関ヶ原の戦いでは徳川方。戦後、仙台藩62万石を領した。家臣支倉常長をローマに派遣した。
王政復古によって成立した新政府が反抗する諸藩軍や旧幕府残存勢力を武力をもって平定し統一国家の基礎を固めることになった内乱。戦乱は1868年(明治1)から69年5月まで1年半に及んだ。鳥羽・伏見の戦いに勝利した政府軍は、4月江戸城を接収、上野にこもる彰義隊はじめ関東各地で旧幕府主戦派を討滅、奥羽越列藩同盟を結んで対抗する諸藩をも会津戦争を頂点に10月には帰順させた。翌年5月、最後の拠点箱館五稜郭を陥落させ内戦は終結、明治国家確立への途が開かれた。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。