鉢形城は文明8間(1476年)山内上杉氏の家臣、長尾景春が築城したとされる城です。深沢川が荒川に合流する断崖をたくみに利用して築城された平山城です。
その後、北条氏邦により整備拡張が行われ北条氏の北関東支配の拠点として重要な役割を果たしてきました。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めにおいては前田利家、上杉景勝などの軍勢に包囲され1か月におよぶ籠城の末、開城しました。
鉢形城は戦国時代を代表する城郭として国指定史跡となり城跡は鉢形城公園として整備されています。外曲輪の一角には鉢形城歴史館が建ち鉢形城の歴史を今に伝えています。
広い城跡には土塁が残り、深沢川を挟んで外曲輪、二ノ丸曲輪、御殿曲輪、本曲輪などが往時の面影を伝えています。
本丸跡には明治・大正の小説家、田山花袋の漢詩の歌碑が建っていました。「襟帯山河好 雄視関八州 古城跡空在 一水尚東流」田山花袋が大正七年に鉢形城跡を訪れた際に詠んだものと言います。
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。
1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦で石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
鎌倉公方を補佐すべく任命された官職。足利尊氏は鎌倉公方を補佐すべく斯波家長を関東管領に任じました。その没後は上杉憲顕と高師冬(こうのもろふゆ)が就任しました。
観応の擾乱の足利直義と高師直の対立は、上杉憲顕と高師冬の対立となり高師冬は上杉能憲に攻められ自殺しました。このあと関東管領は上杉氏が世襲することになります。
上杉氏は山内(やまのうち)、扇谷(おうぎがやつ)、犬懸(いぬがけ)、宅間(たくま)の4家に分かれ交代で関東管領に就任した。
上杉氏の勢力が強化されると、永享10年(1438年)鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と武力衝突するまでに発展し上杉氏は持氏を敗死させた永享(えいきょう)の乱が起こります。
鎌倉府の家臣らの要請で持氏の子成氏(しげうじ)が鎌倉公方に就任しましたが、上杉憲忠(のりただ)を殺害した享徳の乱が発生し成氏は古河に移ることになります。以後管領上杉氏が公方にかわり関東を支配するようになりました。
戦国時代になると後北条氏など新勢力が台頭し、関東管領山内上杉憲政は越後の長尾氏を頼って逃れ管領職を長尾景虎(上杉謙信)に譲りました。謙信は関東管領として関東を支配しようとしたが後北条氏、武田氏らにはばまれて失敗、謙信の死後は関東管領は名実ともに消滅しました。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。