岡崎城は徳川氏が誕生したと言われる城です。家康が江戸幕府を開いてからは本田氏や松平氏など譜代の大名が城主となり、三河武士にとっての故郷とも言うところです。
この城も戦災で焼失し再建したもので、真新しい天守閣の内部は資料館になっていました。閉館の時間が迫っているので駆け足での見物。近くの三河武士の館に展示物があるためか、あまり興味を引く展示物はないようです。
岡崎城の付近一帯は公園となっていますが、古い石垣は往時の城郭の名残を今に伝えるものです。また大手門脇には徳川家康生誕350年を記念して建てられた銅像が建っていました。晩年の家康の姿なのか、ふくよかな姿をした銅像です。
また天守閣の石垣の下にはすでに枯れ草が生えていましたが、家康産湯の井戸と伝えられる井戸も残っていました。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。