北条氏により築城された箱根十城の一つです。小田原城の西の防衛を担う最重要拠点で東海道を取り込む形で築城された山城です。
天正18年(1590年)の小田原征伐では豊臣秀次が率いる7万の軍勢の攻撃に会い、守将である北条氏勝ら4千が奮戦したものの半日で落城したと言います。昭和5年(1930年)国の史跡に指定され、平成18年(2006年)には日本100名城にも指定されています。
三島市が公園として整備され城内には空堀や土塁が復元され障子堀や畝堀など北条家の築城技術の特徴が保存されています。
東海道を挟んで西側には三ノ丸、西ノ丸、二ノ丸、本丸、北ノ丸の曲輪が連なり、東側には御馬場曲輪、岱崎出丸があります。
豊臣秀次の軍勢が押し寄せたとき岱崎出丸は普請の途中であったこともあり、山中城の副将、間宮康俊がわずか100余名で奮戦するも戦死、そののち三ノ丸、本丸もほどなく破られ北の丸での攻防の末、城主松田康長も戦死し中山城は落城したと伝えられています。
力攻めをしたためか豊臣勢の死傷者も多く岱崎出丸では古参の武将一柳直末も戦死しています。三の丸跡にある宗閑寺(そうかんじ)境内には、豊臣勢の戦死者が葬られています。
1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。
1590年豊臣秀吉が天下統一のため小田原の北条氏(後北条氏)を滅ぼした戦い。秀吉は兵農分離による組織化された軍事力と強力な物量作戦を展開し、関東の北条氏の支城を次々と落とし本城小田原城を3ヵ月余にわたり攻囲・降伏させた。
1568~1595年、安土桃山時代の武将。母は秀吉の姉日秀。賤ヶ岳の戦い、四国・小田原攻略で戦功をたて秀吉の養子となった。秀頼誕生によって高野山に追放、自害を命ぜられた。
1568~1595年、安土桃山時代の武将。母は秀吉の姉日秀。賤ヶ岳の戦い、四国・小田原攻略で戦功をたて秀吉の養子となった。秀頼誕生によって高野山に追放、自害を命ぜられた。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
1583年4月、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。本能寺の変後、織田信長の次男信雄を奉ずる秀吉と、三男信孝を奉ずる勝家との対立が原因。勝家・信孝は自殺し秀吉の全国制覇への基礎が築かれた。
1583年4月、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。本能寺の変後、織田信長の次男信雄を奉ずる秀吉と、三男信孝を奉ずる勝家との対立が原因。勝家・信孝は自殺し秀吉の全国制覇への基礎が築かれた。