春日山城は戦国時代の武将、上杉謙信の居城。戦国時代の典型的な山城で初期の築城は南北朝時代とも鎌倉時代とも言われています。上杉謙信の父、長尾為景や上杉謙信、更にはその跡を継いだ上杉景勝により幾度の改修が加えられ、全国でも屈指の規模誇る山城となりました。
上杉氏が会津に転封になると、上杉氏に代わった堀氏が現在の直江津港近くに福島城を築城したため春日山城は廃城となりました。
駐車場に車を停めて謙信の軍旗、刀八毘沙門の旗がはためく春日山神社に参拝しました。
暗い杉林の中の遊歩道を登って行くと千貫門跡にたどり着きます。ここは本城の搦め手と言われるところで、三方を土塁で囲まれ往時は大きな門があったと言います。
右手に直江屋敷跡へ向かう道を分けると、帯郭に沿った遊歩道を登って行きます。刈り込まれた夏草の匂いが鼻を付く遊歩道をしばらく登ると右手に毘沙門堂への道です。毘沙門天に深く帰依した謙信は出陣前にはこの毘沙門堂に篭ったとか。これから連なる郭には諏訪堂、釈迦堂などが建っていたと言います。
山頂は本丸跡と天守閣跡の二つの郭に分かれていました。ここは目の前に上越市、左手には直江津港を始めとする日本海の海岸線を一望することができる眺めの良いところです。謙信もこの頂きの上から信玄の迫る諏訪の地を眺めていたのでしょう。
本丸からは二ノ丸、三ノ丸へ下ることとにしました。暗い杉林に覆われた三ノ丸跡は鮫ヶ尾城で自刃した上杉景虎の屋敷跡や米倉があったところです。ここ春日山城は戦国の歴史の1ページを現在に伝えるところでした。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦で石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。
1553?~1579年、戦国時代の武将。北条氏康の7男。はじめ上杉謙信の人質、のち謙信の養子となった。謙信の没後おなじ養子の上杉景勝と家督をあらそった御館の乱で敗北、鮫ヶ尾城で自刃した。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1555~1623年、安土桃山・江戸初期の武将。上杉謙信の養嗣子。豊臣秀吉の五大老に列し会津120万石を領した。関ヶ原の戦で石田三成と結んで敗れ米沢30万石に減封された。
1578年上杉謙信の没後、その後継を上杉景勝と上杉景虎が争った戦乱。景勝はすぐに春日山城の本丸に入り二ノ丸に居た景虎は御館に移って対峙する。景虎は北条氏政に救援要請した。武田勝頼が景勝と甲越同盟が結ばれると景虎の側は劣勢になり御館が陥落すると景虎は鮫ヶ尾城で自刃した。