犬山城は天文6年(1537年)、室町幕府管領、斯波義郷の家臣織田与次郎信康により建てられた平山城です。戦国動乱の時期には幾度か城主が変わったものの、元和3年(1617年)に小牧、長久手の戦いで功績を上げた尾張紀州家の家老、成瀬正成が城主になりそれ以降、明治にいたるまで、成瀬家9代の居城となった城です。
日本最古の天守閣として姫路城、彦根城、松本城とともに国宝にも指定された城です。
別名の白帝城は江戸時代の儒学者荻生徂徠により李白の詩「朝に辞す白帝彩雲の間 千里の江陵一日にして還る 両岸の猿声啼きやまざるに 軽舟すでに過ぐ万重の山」にちなんで命名したと伝えられたもの。木曽川からから眺める断崖の上の山城を眺めて白帝城と名付けたものと言います。
三光稲荷神社脇の急な階段を上り詰めると本丸です。目の前には三層四階の天守閣が建っていました。
急な階段を登ると最上階の高欄の間からは目の前に木曽川の流れ、晴れた日には南にJR名古屋駅やナゴヤドーム、北東に御嶽、北西に岐阜城を望むことが出きると言います。強い風が吹き抜ける回廊は他の天守閣とことなり低い手摺があるのみ、ちょっと足が竦みそうです。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
1558~1630年、安土桃山・江戸初期の武将。織田信長の次男。豊臣秀吉と小牧・長久手で戦ったがその後に和睦。大坂の陣では徳川家康に味方し、大和国宇陀郡松山に5万石を与えられた。