熊本城(銀杏城) 


 城郭の構造:梯郭式平山城
 築城の時期:中世、1600年ごろ加藤清正により改修
 廃城の時期:1874年
 主な城主:加藤氏、細川氏
 所在地:熊本県熊本市中央区本丸1?1
 訪問日:2010年3月7日

 

熊本城は日本三大名城の一つです。中世に築かれた千葉城、隈本城を加藤清正が改修したもので、清正流(せいしょうりゅう)と呼ばれるそそり立つ石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが建てられた平山城です。

明治時代には陸軍の熊本鎮台が置かれました。西南の役では宇土櫓や東竹之丸を残して消失したものの最後まで薩摩軍の攻撃に耐えた城です。

交差点の先に加藤清正像
二の丸公園から天守閣と宇土櫓
二の丸公園から見る堀と戌亥櫓(いぬいやぐら)
苔むした石垣

熊本城を訪ねたのは3月、広い駐車場もたくさんの観光客で賑わっていました。そそり立つ石垣を一回りしたのち須戸口門から城内に入りました。

苔むした石垣
清正流の石垣
清正流の石垣
須戸口門

本丸広場はたくさんの観光客で賑わっています。正面には大天守閣と小天守閣がそびえています。この天守閣は1960年(昭和35年)に復元されたものでコンクリート造りの内部は資料館になっています。

右に曲がると本丸へ
桜の花も咲き始めています
石垣の上には石落としも
東十八間櫓
本丸広場から見上げる天守閣
本丸にそびえる小天守閣

本丸の一角に残る宇土櫓は建設当時の姿を今に残すものです。薄暗い城郭の中に入ると古い木材が補強され、往時の姿を今に伝えています。

本丸へ向かう石段
築城当時の宇土櫓
熊本城の天守閣と小天主
宇土矢倉から眺める天守閣

狭い木の階段もまた最後まで敵に抵抗しようとする工夫なのかもしれません。

本丸には最近完成した本丸御殿がありました。絢爛な御殿の中には昭君之間という特に豪華な部屋もあります。万が一の時は豊臣秀頼を熊本城に向かい入れるために造ったものと言われています。

 

関連記録・コース

 加藤清正(かとうきよまさ)

1562~1611年、安土桃山時代の武将。幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。熊本城主。文禄慶長の役の先鋒。関ヶ原の戦いでは徳川方について肥後52万石領主となる。秀吉亡きあとの豊臣家の安泰もはかった。

 

 加藤清正(かとうきよまさ)

1562~1611年、安土桃山時代の武将。幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。熊本城主。文禄慶長の役の先鋒。関ヶ原の戦いでは徳川方について肥後52万石領主となる。秀吉亡きあとの豊臣家の安泰もはかった。

 

 西南戦争(せいなんせんそう)・西南の役(せいなんのえき)

明治10年(1877年)西郷隆盛を中心とする鹿児島士族の反乱。熊本鎮台を包囲したが政府軍に鎮圧され西郷らの指導者は多く自刃した。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 文禄の役(ぶんろくのえき)

文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。

 

 慶長の役(けいちょうのえき)

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再びに朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則、加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 文禄の役(ぶんろくのえき)

文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。

 

 慶長の役(けいちょうのえき)

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再びに朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 西郷隆盛(さいごうたかもり)

1828~1877年、軍人、政治家。討幕の指導者として薩長同盟・戊辰戦争を遂行し明治維新の三傑の一人と称された。新政府の参議・陸軍大将となったが、明治6年(1873年)征韓論に関する政変で下野、帰郷。明治10年(1877)西南戦争に敗れ城山で自決。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 大坂冬の陣

慶長19年(1614年)冬、方広寺の鐘銘事件を口実に徳川家康が豊臣氏を大坂城に攻めた戦い。秀頼の軍の奮戦で城は落ちず和議を結んだ。

 

 大坂夏の陣

元和元年(1615年)夏、徳川方が冬の陣の和議の条件に反して大坂城内堀を埋めたため豊臣方が兵を挙げ、徳川家康らに攻め落とされた戦い。これにより豊臣氏は滅亡した。

 

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