名古屋城(金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城) 


 城郭の構造:梯郭式平城
 築城の時期:慶長14年(1609年)、徳川家康
 廃城の時期:明治4年(1871年)
 主な城主:尾張徳川家
 所在地:愛知県名古屋市中区本丸1?1
 訪問日:2005年3月26日

 

名古屋城は、徳川家康が東海道の要所として、また大坂方への備えとして清須から名古屋へ城を移すことを決意した慶長15年(1610年)に着工、慶長17年(1612年)に完成を見た代表的な平城です。

普請は加藤清正福島正則、前田利光など北国、西国の大名で、城内の石垣には各大名や家臣たちが刻んだ刻紋が多数残っています。

本丸御殿跡から見上げる天守閣
本丸には屋台も店を出し

徳川御三家の筆頭、尾張家17代の居城となっていましたが昭和20年の戦災で天守閣をはじめ本丸御殿などの城郭も焼失。現在の天守閣は昭和34年(1959年)の再建と言います。

伊勢音頭にも「伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ、尾張名古屋は城で持つ」と歌われた名城です。

天守閣に登ります
天守閣から名古屋の街並み

名古屋城では愛知万博に合わせ名古屋城博が開催かれている。場内にはたくさんの屋台が軒を並べ、多くの家族連れで賑わっていました。

名古屋城と言えば金のしゃちほこ。愛知万博に合わせ天守閣から下ろされ、場内のドームで一般に公開されています。しゃちほこは雌雄一対で、雄が8尺5寸(約2.58メートル)、雌が8尺3寸(約2.51メートル)とかなり大きなものです。当初は慶長大判で1940枚、時価にして約3億2600万円の金が使われたと言います。

名古屋城博

このためしゃちほこ盗難の歴史も多く、古くは凧に乗ってしゃちほこの鱗を3枚盗んだという怪盗・柿木金助の伝説、明治以降にも名古屋城駐屯の兵卒による盗難の話が残っていると紹介されていました。

 

関連記録・コース

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 加藤清正(かとうきよまさ)

1562~1611年、安土桃山時代の武将。幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。熊本城主。文禄慶長の役の先鋒。関ヶ原の戦いでは徳川方について肥後52万石領主となる。秀吉亡きあとの豊臣家の安泰もはかった。

 

 福島正則(ふくしままさのり)

1561~1624年、安土桃山・江戸初期の武将。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の筆頭となった。1595年、尾張清洲24万石城主。関ヶ原の戦いでは徳川方先鋒。戦後、安芸広島50万石の城主。のち城修築の件で所領を没収され信濃に蟄居、病死した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 文禄の役(ぶんろくのえき)

文禄元年(1592年)豊臣秀吉が明の征服を目的に朝鮮に出兵した侵略戦争。約16万の軍を釜山に上陸させ明の国境まで進出したが、明の援軍、朝鮮水軍の攻撃や民衆蜂起などによって劣勢となり停戦。

 

 慶長の役(けいちょうのえき)

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再びに朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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