彦根城(金亀城) 


 城郭の構造:連郭式平山城
 築城の時期:1622年(元和8年)、井伊直継
 廃城の時期:1874年(明治7年)
 主な城主:井伊氏
 所在地:滋賀県彦根市金亀町1?1
 訪問日:2007年5月14日

 

関ヶ原の合戦の戦功により井伊直政は近江18万石の大名となりました。彦根城は落城した佐和山城に替り金亀山に井伊直継が築城した城です。彦根藩は安政の大獄で有名な大老井伊直弼をはじめ徳川家の譜代として多くの人材を輩出した藩です。

彦根城の観覧券

彦根城近くの駐車場に車を停め城内を見物することにします。折から彦根城400年記念ということで、色々なイベントが企画されていました。

彦根城のお堀
内濠と大手門橋
石段の道を登って行きます
天秤櫓と廊下橋

城内では映画、里見八犬伝や利休などの衣装をデザインしたワダエミの衣裳展が行われていました。しかしこのためなのか入場料もこの期間だけ高くなっていたのは納得できないものです。

天秤櫓
石段を登って本丸へ
太鼓門櫓
天守閣

彦根城は往時の姿を今に伝えるお城です。狭い階段を登り天守閣に入ると彦根藩の歴史を伝える展示がありました。

天守閣から城内を一回りすると、玄宮園と言われる庭園にたどり着きます。ここは彦根藩の下屋敷があったところとか。大きな池を中心に回遊式の庭園が広がっています。湖畔から望む彦根城の天守閣はまさに絵になりそうな眺めでした。

天守閣
松の緑を映す玄宮園

彦根城のお濠の近くには開国記念館がありました。新しく出来た資料館のようで、開国にまつわる彦根藩の歴史がビデオなどを中心に紹介されていました。

桜田門外の変で水戸藩の浪士に井伊直弼を暗殺された彦根藩は、その後の鳥羽伏見の戦いでは朝廷側に就いて徳川慶喜の幕府軍と戦ったと言います。時に歴史は思わぬ展開を見せるものです。

玄宮園から望む彦根城
玄宮園から望む彦根城

 

関連記録・コース

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 井伊直政(いいなおまさ)

1561~1602年、織豊-江戸時代前期の武将。天正3年徳川家康の小姓となり今川氏真(いまがわうじざね)に殺された父の旧領井伊谷をあたえられる。関ヶ原の戦いの軍功により近江佐和山城主となる。18万石。

 

 安政の大獄(あんせいのたいごく)

安政5~6年(1858~1859年)、大老井伊直弼が行った尊王攘夷派への弾圧。安政の仮条約や、家茂を14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰・橋本左内ら8名を死刑とした。

 

 井伊直弼(いいなおすけ)

1815~1860年、江戸末期の大老。近江彦根藩主。将軍継嗣問題で水戸派と対抗、14代将軍に紀州家の慶福(よしとみ・家茂)をつけた。また1858年、勅許を待たず安政五か国条約に調印。これに反対する勢力を弾圧して安政の大獄を起こし、1860年、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 

 桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)

1860年3月3日、大老井伊直弼が桜田門外で水戸浪士ら18名により暗殺された事件。勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことや安政の大獄による弾圧などに対し水戸浪士が憤激して起こした。

 

 井伊直弼(いいなおすけ)

1815~1860年、江戸末期の大老。近江彦根藩主。将軍継嗣問題で水戸派と対抗、14代将軍に紀州家の慶福(よしとみ・家茂)をつけた。また1858年、勅許を待たず安政五か国条約に調印。これに反対する勢力を弾圧して安政の大獄を起こし、1860年、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 

 鳥羽伏見の戦い(とばふしみのたたかい)

慶応4年1月3日(1868年1月27日)に起こった旧幕府軍および会津・桑名藩兵と薩長軍との内戦。新政府が王政復古の大号令に続く小御所会議で徳川慶喜(よしのぶ)の辞官納地を決定したのに対し旧幕府方が挙兵、鳥羽・伏見で薩長軍と交戦。戊辰戦争(ぼしんせんそう)の発端となった。旧幕府軍の大敗に終わり討幕派の優勢が確立した

 

 徳川慶喜(とくがわよしのぶ)

1837~1913年、江戸幕府15代将軍。水戸藩主徳川斉昭の七男。十三代将軍家定の継嗣問題で家茂と争い敗れるが、将軍後見役となり幕権の維持・公武合体政策を進める。家茂歿後、将軍となり幕政改革を行なう。慶応3年(1867)大政奉還し翌年江戸城を明け渡した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 今川氏真(いまがわうじざね)

1538-1615年、戦国時代の武将。桶狭間の戦いで今川義元の敗死で家督をつぐ。7年ほどで領国の駿河、遠江、三河を徳川家康、武田信玄にうばわれる。のち家康の援助をうけて生涯をすごす。和歌、蹴鞠をよくした。子孫は高家(こうけ)として幕府につかえた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 井伊直弼(いいなおすけ)

1815~1860年、江戸末期の大老。近江彦根藩主。将軍継嗣問題で水戸派と対抗、14代将軍に紀州家の慶福(よしとみ・家茂)をつけた。また1858年、勅許を待たず安政五か国条約に調印。これに反対する勢力を弾圧して安政の大獄を起こし、1860年、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作、伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

 井伊直弼(いいなおすけ)

1815~1860年、江戸末期の大老。近江彦根藩主。将軍継嗣問題で水戸派と対抗、14代将軍に紀州家の慶福(よしとみ・家茂)をつけた。また1858年、勅許を待たず安政五か国条約に調印。これに反対する勢力を弾圧して安政の大獄を起こし、1860年、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 

 安政の大獄(あんせいのたいごく)

安政5~6年(1858~1859年)、大老井伊直弼が行った尊王攘夷派への弾圧。安政の仮条約や、家茂を14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰・橋本左内ら8名を死刑とした。

 

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