松山城(金亀城、勝山城) 


 城郭の構造:梯郭式平山城
 築城の時期:慶長7年(1602年)加藤嘉明が築城に着手
 廃城の時期:明治6年(1873年)
 主な城主:加藤氏、松平(久松)氏
 所在地:愛媛県松山市丸之内1
 訪問日:2011年10月21日、2017年9月27日

 

 訪問日:2011年10月21日

松山城は松山の中心にそびえる勝山の山頂に築かれた平山城です。日本に天守閣が現存する12の城の一つに数えられ、大天守と小天守を渡り廊下で結んだ連立式の城として日本三大連立式平山城にも数えられています。

松山城は賤ヶ岳の七本槍の一人、加藤嘉明が慶長7年(1602年)に築城に着手、城の完成を前に加藤氏が会津に移封されると蒲生氏がその後を継ぎ、寛永12年(1635年)には徳川家の親藩である松平定行が城主となり、以降幕末まで四国における親藩としてその歴史を刻んだ城です。

ロープウェイ駅近くの駐車場に車を停めロープウェイ駅へ。朝早くにもかかわらずすでに数台の観光バスが駐車していました。

松山の町は今、坂の上の雲のキャンペーンで賑わっています。日露戦争の時代を生きた連合艦隊の参謀、秋山真之や日本騎兵の父と言われる秋山好古、文学界に大きな足跡を残した俳人正岡子規はこの松山城下に育ったと言います。ロープウェイ駅には書生風の着物を着た若者が観光案内をしていました。

ロープウェイと並走していたリフトで山頂駅へ。ここからは広い公園の中を筒井門へ向かいます。筒井門は松山城の本丸を守る大きな門で、門のわきには隠し門もありました。

太鼓門をくぐると本丸です。広い本丸のサクラはそろそろ紅葉が始まりかけています。たくさんの観光客を相手に矢がすりを着た女性が観光案内をしていました。

天守閣へはいくつもの門をくぐって登ることになります。石垣に囲まれた曲がりくねった道を進んでいきます。見上げる楼や渡り廊下には石落としや鉄砲狭間などが設けられ、堅固な城郭としての工夫が施されているようです。

筋鉄門をくぐると天守閣です。鉄筋門は天守閣の最後の守りとしてより堅固に作られているようです。天守閣に入るとここも急な階段、中には加藤嘉明の甲冑や、松平定行の甲冑なども展示してありました。

加藤嘉明公の像
28サンチ砲のレプリカ
リフトで山頂駅へ
石垣の傍を登って行きます
石垣を説明する案内板
石垣のを廻ると筒井門
坂道の先に戸無門
筒井門をくぐると本丸
巽櫓の前に築城を説明する案内板
太鼓門
本丸から眺める天守閣
松山城のキャラクターはよしあきくん
鉄砲狭間の上に小天守
小天守の奥に大天守
小天守を廻ると一ノ門
小天守と大天守を結ぶ筋鉄門
狭い階段を上がると小天主
天守から見下ろす本壇
本丸には武具などが展示
天守閣から眺める松山の町
三ノ門
南隅櫓と北隅櫓を結ぶ十軒廊下

 

 訪問日:2017年9月27日

今回は東雲登城道を利用することにします。リフトと並行する道は20分ほどで長者ヶ平にたどり着くことができます。ここからはロープウェイで登ってきた観光客と一緒に本丸を目指すことにします。

本丸を囲むようにそびえる石垣は高さ10mほど、築城後修理などが行われていますが本壇の北側は築城当時の打ち込みハギ、南側は天守などが再建されたとき積みなおされた切込みハギの布積になっていると言います。

戸無門をくぐると筒井門、その隣には隠れ門があり城の防御を高めるための工夫がされたところです。筒井門をくぐると太鼓門、その先は広い本丸に続いていました。

本丸の奥には天守閣がそびえています。全国有数の規模を誇る連立式天守で、大天守と小天守、それを取り巻くように多くの櫓が建っていました。前回は天守を見たのち東雲口に下ったので今回は乾門から古町口に下ることにしました。

リフトに沿って長者ヶ平へ
長者ヶ平に案内板
揚木戸門跡の石垣
石垣の上は隠門続櫓
石垣の案内板
打ち込みハギの石垣
算木積みの石垣
待合番所跡から続く坂道
戸無門の案内板
戸無門
隠門の案内板
筒井門をくぐって
筒井門の脇に隠門
太鼓楼
隠門続き櫓
松山城の案内板
太鼓門
太鼓門の案内
本丸井戸
本丸の休憩舎
本丸紫竹門
本丸、本壇の案内板
小天守と一ノ門南櫓
紫竹門の案内板
乾門東続櫓
石垣の上に小天守
乾櫓、野原櫓の案内板
南隅櫓
北隅櫓
乾門東続櫓の案内板
乾門から見上げる小天守
乾門
乾門の案内板
乾門の先に小天守
古町口登城道
城山公園の案内
二の丸の石垣
城山公園の案内
城山公園の案内
堀の案内板
関連記録・コース

 加藤嘉明(かとうよしあき)

1563~1631年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉につかえる。賤ヶ岳七本槍の一人。慶長の役の水軍の将。関ヶ原の戦いでは徳川方につき会津40万石を領した。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 加藤嘉明(かとうよしあき)

1563~1631年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉につかえる。賤ヶ岳七本槍の一人。慶長の役の水軍の将。関ヶ原の戦いでは徳川方につき会津40万石を領した。

 

 加藤嘉明(かとうよしあき)

1563~1631年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉につかえる。賤ヶ岳七本槍の一人。慶長の役の水軍の将。関ヶ原の戦いでは徳川方につき会津40万石を領した。

 

 打ち込みハギ(うちこみはぎ)

表面に出る石の角や面をたたき、平たくし石同士の接合面に隙間を減らして積み上げる方法である。関ヶ原の戦い以後この手法が盛んに用いられた。野面積みより高く急な勾配が可能になる。

 

 切込みハギ(きりこみはぎ)

方形に整形した石材を密着させ積み上げる方法である。慶長5年(1600年)以降、隅石の加工から徐々に平石にまでわたるようになり、江戸時代初期(元和期)以降に多用されるようになった。石材同士が密着しているので排水できないため排水口が設けられる。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 慶長の役(けいちょうのえき)

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉が文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再びに朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 賤ヶ岳の戦(しずがたけのたたかい)

1583年4月、賤ヶ岳付近で羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。本能寺の変後、織田信長の次男信雄を奉ずる秀吉と、三男信孝を奉ずる勝家との対立が原因。勝家・信孝は自殺し秀吉の全国制覇への基礎が築かれた。

 

 福島正則(ふくしままさのり)

1561~1624年、安土桃山・江戸初期の武将。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の筆頭となった。1595年、尾張清洲24万石城主。関ヶ原の戦いでは徳川方先鋒。戦後、安芸広島50万石の城主。のち城修築の件で所領を没収され信濃に蟄居、病死した。

 

 加藤清正(かとうきよまさ)

1562~1611年、安土桃山時代の武将。幼少より豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人。熊本城主。文禄・慶長の役の先鋒。関ヶ原の戦いでは徳川方について肥後52万石領主となる。秀吉亡きあとの豊臣家の安泰もはかった。

 

 加藤嘉明(かとうよしあき)

1563~1631年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉につかえる。賤ヶ岳七本槍の一人。慶長の役の水軍の将。関ヶ原の戦いでは徳川方につき会津40万石を領した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 慶長の役(けいちょうのえき)

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉が文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再びに朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけしちほんやり)

賤ヶ岳の戦いで功名を上げた豊臣方の侍、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、福島正則加藤清正、糟屋武則、加藤嘉明

 

 慶長の役(けいちょうのえき)

慶長2年(1597年)、豊臣秀吉が文禄の役で明と和議をしたのち、明使のもたらした表文をめぐって再びに朝鮮に出兵した戦役。翌年秀吉の死後に撤兵した。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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