観音寺城(佐々木城) 


 城郭の構造:山城
 築城の時期:応仁・文明年間(1467-1487年)、六角氏頼
 廃城の時期:永禄11年(1568年)
 主な城主:佐々木六角氏
 所在地:滋賀県近江八幡市安土町石寺
 訪問日:2006年11月10日

 

観音正寺は戦国の武将、佐々木六角氏が築いた山城です。六角氏は宇多源氏の名門で、足利時代には管領代として勢力を誇っていたようでしたか、浅井氏などとの抗争により徐々に勢力を落としていました。織田信長が近江に進出するようになると六角氏は闘わずして観音寺城を放棄、以降は廃城になったと言います。

山城としては戦国最大の規模を誇る城も防御面では見るべきものは少ないと言います。このことが闘わずして観音寺城を放棄した理由なのでしょうか。

観音正寺の近くでみやげ物を売っていた小母さんに聞くと、観音正寺の奥ノ院から繖山の山頂を経て、観音寺城に下る道があるとか。もらった地図を頼りに観音寺城に向かうことにします。

ここから暗い雑木林の中をひと登りすると稜線です。佐々木城跡の石碑や小さな掘削地を超えると分岐点です。ここで道を右に折れると程なく標高433mの繖山山頂にたどり着きます。山頂からは北西方向の展望が開け、目の前には織田信長の築いた安土城址、その奥には琵琶湖が広がっているようです。

岩の下に奥ノ院の社
尾根道をたどると繖山の山頂
繖山からの霞んだ展望は安土城か
霞んだ琵琶湖

繖山の山頂からは分岐点に戻り観音寺城址に下っていくことにします。急な坂道を下っていくと竹やぶの中に本丸へと登っていく石段がありました。たどり着いた本丸跡は石垣がめぐらされた大きな曲輪。木立に覆われた曲輪は戦乱を生き抜いた武将の気迫が今も残っているようです。

観音正寺城跡の案内板
本丸曲輪
急な石段を登ると本丸曲輪
崩れかけた本丸曲輪
落合氏屋敷跡という曲輪

大手門跡という石垣から三ノ丸、平井曲輪へと下っていきます。地図ではここから宮津口見附を経て大手道を下っていく道があるようですが見つかりません。仕方なく三ノ丸から観音正寺に戻ることにしました。

 

関連記録・コース

 六角氏頼(ろっかくうじより)

1326~1370年、南北朝時代の武将。佐々木(六角)時信の子。足利尊氏に従い近江守護となる。尊氏の死後は足利義詮につかえた。また佐々木家嫡流であったにもかかわらず佐々木(京極)導誉の台頭を許した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 足利尊氏(あしかがたかうじ)

1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。

 

 足利義詮(あしかがよしあきら)

1330~1367年、室町幕府二代将軍。足利尊氏の子。元弘の乱で新田義貞とともに鎌倉攻めに参加。尊氏の死後、1358年将軍となり足利政権の基礎を固めた。

 

 佐々木高氏(ささきたかうじ)佐々木導誉(ささきどうよ)

1306~1373年、南北朝時代の武将。入道して導誉(どうよ)。京極氏の出。足利尊氏に従い室町幕府創設に功をたてる。近江・上総・出雲・隠岐守護。性豪放磊落、和歌・連歌をよくし近江猿楽の保護にも努めた。

 

 武田勝頼(たけだかつより)

1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

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