高知城(大高坂山城、河中山城、鷹城) 


 城郭の構造:梯郭式平山城
 築城の時期:南北朝時代大高坂松王丸が築城、慶長8年(1603年)山内一豊が改修
 廃城の時期:明治4年(1871年)
 主な城主:山内氏
 所在地:高知県高知市丸ノ内
 訪問日:2011年5月27日

 

高知城は関ヶ原の戦功により徳川家康から土佐24万石を拝領した山内一豊の居城として慶長6年(1601年)から10年の月日をかけ築かれた平山城です。

享保12年(1727年)の火災で城郭は焼失したもののその後再建され、明治の廃城令、太平洋戦争の戦災の危機を乗り越え南海道随一の名城としてその姿を今に伝えています。

山内一豊の騎馬像
お堀に影を落とす隅櫓
追手門
追手門の上に天守閣

高知城前の駐車場に車を停め、お堀沿いの遊歩道を進むと騎馬姿の山内一豊の像がそびえていました。

境内には板垣退助像
三ノ丸へ続く道
石垣の脇を三ノ丸へ
石樋で水の対策をした石垣

追手門から場内に入ると広い石段の道が続いています。土佐が産んだ自由民権運動の指導者板垣退助やNHKの大河ドラマ功名が辻で知られる山内一豊の妻、千代の銅像が建っていました。

功名が辻でお馴染の千代
詰門
石垣の上に天守閣
野面積み石垣

古い野面積の石垣には雨の多い高地地方の気候に合わせ排水のための工夫も取り入れられています。最近、修復した三ノ丸の石垣では往時の工事の手法や修復の過程が紹介されていました。

天守閣
詰門を渡り本丸へ
本丸御殿と天守閣
物見の狭間

 

関連記録・コース

 山内一豊(やまのうちかずとよ)

1546~1605年、安土桃山・江戸初期の武将。土佐藩祖。織田信長豊臣秀吉に仕え遠江掛川五万石を領した。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、戦後土佐20万石の領主となる。信長の馬揃えにあたり妻が鏡の裏から秘蔵の金を出し、一豊に名馬を買わせた内助の功の話が伝わる。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 山内一豊(やまのうちかずとよ)

1546~1605年、安土桃山・江戸初期の武将。土佐藩祖。織田信長豊臣秀吉に仕え遠江掛川五万石を領した。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、戦後土佐20万石の領主となる。信長の馬揃えにあたり妻が鏡の裏から秘蔵の金を出し、一豊に名馬を買わせた内助の功の話が伝わる。

 

 廃城令(はいじょうれい)

明治6年(1873年)明治政府において太政官から陸軍省に発せられた太政官達全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(ぜんこくじょうかくそんぱいのしょぶんならびにへいえいちとうせんていかた)、多くの城郭や武家地などは収公され官公庁用地として開発された。軍事施設として利用するか廃城となった城もある。

 

 山内一豊(やまのうちかずとよ)

1546~1605年、安土桃山・江戸初期の武将。土佐藩祖。織田信長豊臣秀吉に仕え遠江掛川五万石を領した。関ヶ原の戦いでは徳川方に属し、戦後土佐20万石の領主となる。信長の馬揃えにあたり妻が鏡の裏から秘蔵の金を出し、一豊に名馬を買わせた内助の功の話が伝わる。

 

 板垣退助(いたがきたいすけ)

1837~1919年、幕末から明治の政治家。討幕運動に参加。維新後参議となったが征韓論を主張し敗れて下野。民撰議院設立建白書を提出するなど自由民権運動を指導し、1881年(明治14)自由党を結成。第二次伊藤内閣・第一次大隈内閣の内相。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

 豊臣秀頼(とよとみひでより)

1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 石田三成(いしだみつなり)

1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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