高松城・玉藻城(たまもじょう) 


 城郭の構造:輪郭式平城
 築城の時期:天正18年(1590年)、生駒親正
 廃城の時期:明治2年(1869年)
 主な城主:生駒氏、松平氏
 所在地:香川県高松市玉藻町2ー1
 訪問日:2017年9月25日

 

高松城は豊臣秀吉の四国制圧の後、1588年(天正16年)生駒親正によって築城が始まったもので江戸初期に徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。

近世の海城としては最初で最大の城として知られています。城跡は玉藻公園として整備され、三重櫓や門など一部の建物と一部の石垣、堀が現存しています。

高松城の西門
高松城の入り口
入場料は200円
高松城の案内板
二の丸では菊祭りの準備
鉄門の先は披雲閣庭園
本丸へと続く鞘橋
鞘橋の案内板

夕闇が迫り始めた公園内では菊祭りの準備が行われているようで幾つものテントが張られていました。城郭の形式は輪郭式平城で城壁は瀬戸内海に面し堀には海水が引き込まれていると言います。城内に直接軍船が出入りでき水軍の運用も考えられた本格的な海城とされています。

二の丸から鞘橋と呼ばれる屋根付きの橋を渡ると本丸です。本丸の外れには天守台があります。かつては3重4層の天守閣がありましたが老朽化により1884年(明治17年)に解体され、松平家初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が建立されました。

内堀の上に天守台
本丸の石垣
地久櫓
本丸に天守台
天守台から眺める内堀
天守台から眺める内堀
天守台修理工事の案内板
地下一階発見の案内板

2006年より始まった天守台石垣の解体修復工事に伴い、玉藻廟はすべて解体され天守閣の復元計画が進んでいると言います。

海につながる水門
鉄門の案内板
高松藩の泳法の案内板
水門
水門の案内板
内堀の上の天守台
披雲閣
披雲閣庭園
披雲閣庭園
披雲閣
披雲閣庭園の案内板
月見櫓の案内板
月見櫓
月見櫓

 

 

関連記録・コース

 生駒親正(いこまちかまさ)

1526~1603年、安土桃山時代の武将。織田信長豊臣秀吉に仕える。1587年(天正15)讃岐国を支配し高松城を築城した。関ヶ原の戦では西軍に属し丹波に出兵、長男一正は東軍に属し讃岐一国を安堵される。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 生駒親正(いこまちかまさ)

1526~1603年、安土桃山時代の武将。織田信長豊臣秀吉に仕える。1587年(天正15)讃岐国を支配し高松城を築城した。関ヶ原の戦では西軍に属し丹波に出兵、長男一正は東軍に属し讃岐一国を安堵される。

 

 徳川光圀(とくがわみつくに)

1628~1700年、江戸前期の水戸藩主。中納言の唐名黄門により世に水戸黄門とも言う。大義名分を重んじて儒学を奨励、彰考館を設けて俊才を招き大日本史を編纂した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 明智光秀(あけちみつひで)

1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。

 

 柴田勝家(しばたかついえ)

1522~1583年、安土桃山時代の武将。織田信長の臣。越前北ノ庄に拠って北陸を支配。本能寺の変後、豊臣秀吉と対立、賤ヶ岳の戦いに敗れ北ノ庄で自害した。

 

 織田信長(おだのぶなが)

1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。

 

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)

1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。

天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。

 

 関ヶ原の戦

慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。

 

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