観音正寺は琵琶湖東岸、繖山の山頂近くに位置する天台宗の古刹です。繖山には佐々木六角氏の居城、観音寺城があり観音正寺は六角氏の庇護を受けて栄えたと言います。
観音正寺の巡礼道のひとつ石寺参道は急な階段の続く坂道です。日吉神社の鳥居前の駐車場に車を停め、参道に続く丁目石に励まされながら急な登りに汗を流すと左手に教林坊から登ってくる道を合わせます。小さな東屋の脇を登っていくと左手に駐車場。林道がここまで登ってきているようで車が一台停まっていました。ここからも急な石の階段が続きます。階段には小さな札に人生訓が書かれていました。
たどり着いた観音正寺は広く開けた台地に建っています。道の両側に建つ恐ろしげな仁王像の視線を浴びながら参道を進むと、左手に酒樽にかやぶきの屋根をつけた北向地蔵堂が建っています。
さらに進むと見上げるような石積みの脇に、繖山の扁額を掲げた観音正寺の本堂が建っています。真新しい本堂は平成16年に再建されたものとか。本堂の前には再建に携わった人々への感謝の言葉が書かれていました。
本堂の前には源平池、高々と積み重なった石積みの中には青銅の観音像が祀られていました。
本堂の裏手は改修工事の最中というっことで、フェンスで囲われています。フェンス傍の石積みの下に小さな魚濫観音像が刻まれていました。観音正寺には人魚の伝説が伝わっています。魚の上に乗った観音像もそれとかかわりがあるのでしょうか。
本堂の前からはうす雲が広がっているものの、近江盆地を展望が広がっています。しかし、はじめて見る展望は何処がどの山か何処がどの町かなかなか判りませんでした。
観音正寺の奥ノ院は川並参道への道の途中にあります。石造りの鳥居から急な石段が続いています。固定ロープも張ってありこれは参道ではなく完全な山道。さらに急な石段を登ると暗い大岩の間に小さなお堂が祭られていました。
法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。
574~622年、古代推古朝の摂政、用明天皇の皇子。推古天皇の皇太子となり摂政として内政・外交・仏教の興隆に力を尽した。
冠位十二階、十七条憲法を制定。豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討、小野妹子を隋に派遣して国交を開いた。
仏教を深く信仰し法隆寺、四天王寺などを建立し、仏典の注釈三経義疏を著わしたと伝えられる。
六観音の一つ。限りない慈悲を表す菩薩で、千の慈悲の眼と千の慈悲の手をそなえ、生ある者を救うという。二七面四二臂の像が一般的。千手千眼観世音。千眼千臂観世音。
法華経を根本経典とする大乗仏教の一派。575年隋の智顗(ちぎ)が天台山にこもって大成。日本へは奈良時代に唐僧鑑真(がんじん)が初めて伝え、平安初期に最澄が比叡山に延暦寺を建て開宗。のち山門派と寺門派、さらに真盛(しんぜい)派に分かれた。
中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。
第31代天皇(在位:585年9月5日~587年4月9日)欽明天皇第四皇子。聖徳太子の父。天皇の仏教受容をめぐって物部守屋と蘇我馬子が対立した。陵墓は大阪府南河内郡太子町春日の河内磯長原陵。
第33代天皇(在位:593年12月8日~628年3月7日)欽明天皇第3皇女。敏達天皇の皇后。女帝。崇峻天皇が蘇我馬子に殺されると推されて即位。わが国最初の女帝となる。聖徳太子を皇太子、摂政として政治を行い飛鳥文化を現出。陵墓は大阪府南河内郡太子町山田の磯長山田陵。
六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
中国、唐代の高僧。日本律宗の開祖。揚州大明(たいめい)寺で戒律を講じ名声があった。742年日本僧栄叡(ようえい)らの請に応じて来日を志したが海賊や風波の災で5度挫折の後、754年渡来した。