中山寺は聖徳太子により開創したというお寺です。駅前の駐車場に車を停め、阪急中山駅の線路をくぐると大きな山門があります。まだ参拝時間が始まっていないようで境内にはあまり人影もありません。
参道にはたくさんの塔頭があります。七五三参りの旗が棚引く参道を進むと、右手に本堂へ上って行くエスカレータがあります。このお寺は安産の御利益があるとのことで妊婦さんなどもお参りに来るためなのでしょうが、お寺にエスカレータは多少場違いな気もします。
急な階段を登って行くと参道右手には真新しい五百羅漢堂が建っています。堂内には観音像を中心としてたくさんの羅漢像が祀られていました。
参道の左手には朱塗りの柱も鮮やかな閻魔堂が建っています。恐ろしげな顔をした閻魔大王を中心として右手に司命像、左手に司禄像が祀られています。司命は現在の検察官、司禄は書記官と言ったところでしょうか。さらのその左手には罪状秤(ざいじょうばかり)が置かれていました。秤の片方に大きな岩が結ばれて、罪の重い人を吊り下げると岩が持ち上がってしまうとか。
正面の本堂は豊臣秀頼により再建されたと言います。本堂の軒先にはたくさんの灯篭が吊り下げられていました。
本堂に参拝してから参道脇に建つ塔頭を参拝して行くことにします。普賢菩薩や、虚空蔵菩薩、弁財天、地蔵菩薩などが祀られていました。これらの塔頭と境内の堂宇には十二支に因んだ仏が祀られていることになるのですが、これらすべてを回るのもなかなか時間がかかるようです。
574~622年、古代推古朝の摂政、用明天皇の皇子。推古天皇の皇太子となり摂政として内政・外交・仏教の興隆に力を尽した。
冠位十二階、十七条憲法を制定。豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討、小野妹子を隋に派遣して国交を開いた。
仏教を深く信仰し法隆寺、四天王寺などを建立し、仏典の注釈三経義疏を著わしたと伝えられる。
574~622年、古代推古朝の摂政、用明天皇の皇子。推古天皇の皇太子となり摂政として内政・外交・仏教の興隆に力を尽した。
冠位十二階、十七条憲法を制定。豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。外交面では任那回復のための新羅征討、小野妹子を隋に派遣して国交を開いた。
仏教を深く信仰し法隆寺、四天王寺などを建立し、仏典の注釈三経義疏を著わしたと伝えられる。
中国において北斗七星の桝の上部にある星座文昌宮六星の第4星を司命という。人間の寿命をつかさどる天神と考えられた。道教では人間の寿命台帳を管理し、人間の行為の善悪を監視する三尸虫(さんしちゆう)や竈神(かまどがみ)の報告に基づいて寿命の増減を行う神と考えられた。
中国において北斗七星の桝の上部にある星座文昌宮六星の第6星を司禄という。司命とともに冥府を代表する役人。司命は生前の罪状を読み上げ、司録は筆と経巻を執りそれを記録する姿にあらわされる。
1593~1615年、安土桃山・江戸前期の大名。大坂城主。豊臣秀吉の次男。徳川家康の将軍就任に伴い一大名となる。方広寺鐘銘事件を端に徳川家との間に大坂冬の陣を起こす。一旦講和するが大坂夏の陣に敗れた。
インドの河神で音楽・智恵・財物の神として吉祥天とともに広く信仰された女神。
仏教に取り入れられ吉祥天と同一視されるようになった。八本の手で各種の武具を持つ像もあるが、鎌倉時代には二手で琵琶を持つ女神像が一般化した。日本では七福神の一人として民衆の信仰を集めてきた。
第31代天皇(在位:585年9月5日~587年4月9日)欽明天皇第四皇子。聖徳太子の父。天皇の仏教受容をめぐって物部守屋と蘇我馬子が対立した。陵墓は大阪府南河内郡太子町春日の河内磯長原陵。
第33代天皇(在位:593年12月8日~628年3月7日)欽明天皇第3皇女。敏達天皇の皇后。女帝。崇峻天皇が蘇我馬子に殺されると推されて即位。わが国最初の女帝となる。聖徳太子を皇太子、摂政として政治を行い飛鳥文化を現出。陵墓は大阪府南河内郡太子町山田の磯長山田陵。
六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
第31代天皇(在位:585年9月5日~587年4月9日)欽明天皇第四皇子。聖徳太子の父。天皇の仏教受容をめぐって物部守屋と蘇我馬子が対立した。陵墓は大阪府南河内郡太子町春日の河内磯長原陵。
第33代天皇(在位:593年12月8日~628年3月7日)欽明天皇第3皇女。敏達天皇の皇后。女帝。崇峻天皇が蘇我馬子に殺されると推されて即位。わが国最初の女帝となる。聖徳太子を皇太子、摂政として政治を行い飛鳥文化を現出。陵墓は大阪府南河内郡太子町山田の磯長山田陵。
仏教の開祖。世界4聖の一人。ネパール南部の釈迦族の王子として紀元前6から前5世紀に生まれる。苦行ののち悟りをひらきインド各地で布教して80歳で没したとされる。
はじめは実在の釈迦をさしたが入滅後、超人化・神格化されて信仰・崇拝の対象となる。日本には6世紀、百済からその教えがつたわった。
中国において北斗七星の桝の上部にある星座文昌宮六星の第4星を司命という。人間の寿命をつかさどる天神と考えられた。道教では人間の寿命台帳を管理し、人間の行為の善悪を監視する三尸虫(さんしちゆう)や竈神(かまどがみ)の報告に基づいて寿命の増減を行う神と考えられた。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
インド神話の神でビシュヌ神の妃とされた。仏教では徳叉迦(とくさか)を父に、鬼子母神(きしもじん)を母に生まれ、毘沙門天の妃とされる。仏法を護持する天女。天衣宝冠を着け左手に如意宝珠を捧げ持つ。
仏教の開祖。世界4聖の一人。ネパール南部の釈迦族の王子として紀元前6から前5世紀に生まれる。苦行ののち悟りをひらきインド各地で布教して80歳で没したとされる。
はじめは実在の釈迦をさしたが入滅後、超人化・神格化されて信仰・崇拝の対象となる。日本には6世紀、百済からその教えがつたわった。