岩殿山は戦国の武将、小山田氏の居城があったところで、甲斐と相模を結ぶ交通の要衝であったところです。鏡岩と呼ばれる切り立った岩峰の上に築かれた城は、駿河の 久能山城、上野の岩櫃城と並び、武田三名城と呼ばれ、難攻不落を誇っていたと言います。
織田信長が武田に侵攻した時、城主小山田信茂は織田方に寝返り、岩殿山城に落ち延びる武田勝頼を郡内に迎え入れなかったと言います。これにより武田勝頼は近くの天目山で自害し、戦国雄である武田氏もその歴史を閉じました。また小山田信茂も謀反の咎で甲斐善光寺において処刑されたと言います。浅利近くの切り立った岩場には岩殿山落城にまつわる稚児落としの悲話が今に残されています。
大月の商店街からJRの線路を渡ると、鏡岩がそびえたつ岩殿山の直下に広がる丸山公園です。咲き始めたツツジの花を見ながら、ジグザグに公園の中を登って行きます。しばらく登るとふれあい館と呼ばれるお城のような資料館がありました。すでに桜は咲き終わっていますが、ゆったりと流れる桂川と大月の街並みを一望することのできる展望の良いところです。
ここからもよく整備された坂道をジグザグに登って行きます。見上げるような鏡岩の基部が近づいてくると揚城戸跡と呼ばれるところ。大きな自然石を利用して城門を築いたところのようで、近くには番所跡もあります。ここからひと登りで、岩殿山の山頂にたどり着きました。広く開けた山頂には標柱や乃木陸軍大将の碑文などがありました。
時計はまだ11時になっていませんが目の前に広がる展望を楽しみながらお握りをほおばることにしました。この季節、岩殿山は軽いハイキングの山として訪れる人も多いようです。小さな子どもを連れた家族連れのほか、大勢のお年寄りのグループなども登ってきます。何処かの山岳会のようで、山頂の広場でザイルの講習を開いているグループもいました。
広く開けた山頂には馬場や蔵屋敷跡、二の丸、三の丸などの遺構や空掘跡が残っています。パラボラアンテナが建つひときわ高いところが烽火台と言われるところで、ここを中心に本丸があったところと伝えられています。近くには空掘も残っており、難攻を誇った城の跡を垣間見ることができるようです。
山頂から揚城戸跡に戻り、兜岩・稚児落とし分岐から道を右に。雑木林の山腹を巻くように下って行く道は往時の追手門である築坂へと下って行きます。
たどり着いた築坂は空掘跡も残っています。ここからは雑木林の中を緩やかに登って行きます。樹林帯の中を巻く巻き道を右に分けると第一の岩場、鎧岩です。2本の鎖を頼りに岩溝を登って行きます。
鎧岩を過ぎると第2の岩場、兜岩です。最初は岩壁をトラバースすることになりますが、手すりも付いているのであまり恐怖感もありません。鎖を頼りに岩溝の中を登って行くと広く開けた岩の上にたどり着きました。最初は少し怖がっていた子供達も、岩場に慣れるに従い岩登りの楽しさが判ってきたようです。
ここからは赤松の林の中を下って行きます。鉄塔下の広場で小休止したのち、林の中を緩やかに登り返すと稚児落としの岩壁の脇を登って行くようになります。小さく回り込んだ岩の上は目の前が切れ落ちた30mほどの岩壁。ここが岩殿城落城のとき、稚児落としの悲話を伝えるところです。
稚児落としからは浅利に向かい下ることになります。途中には固定ロープの張られたところもあり、かなり急な下りでした。たどり着いた浅利の集落から大月の駅まで。あまり車も多くない道ですが、アスファルトの道を戻るのは疲れ始めた子供たちにはあまり好きなものではないようです。
桜の時期は終わってしまったようですが、岩殿山は春の花に彩られています。丸山公園周辺には気の早いツツジが赤いつぼみを膨らませています。道端に目を落とすとジュウニヒトエがたくさん咲いていました。岩殿山の山頂にはイカリソウが咲いています。お馴染みのピンクの春の花ですが、真っ白なイカリソウもありました。