八王子駅10:20~福伝寺10:30~子安神社10:35~市守森神社・大鳥神社10:50~八幡神社・八雲神社11:00~バーミアン八王子万町店11:20/40~斟珠寺12:10~片倉城址・住吉神社12:25/13:05~御殿峠13:45~光寶寺13:55~相原坂上14:20~清水寺14:40~香福寺15:00~橋本明神大神宮15:10~橋本駅15:30
幾つある大山道のうち武蔵方面から大山へと向かう道は八王子通り大山道です。熊谷、東松山、川越、狭山、福生、拝島、八王子、御殿峠、橋本を経て、相模川で田名の渡し、中津川で才戸の渡しを使い、萩の、岡津古久、富岡、石蔵、大山子易明神前を経て大山に至る道です。
その歩き始めとして八王子から橋本の間を歩いてみることにしました。八王子の由来は延喜13年に妙行という僧が深沢山の麓に庵を建て、牛頭天王と8人の王子を祀り、八王子権現と称したという伝説に基づくと言われています。また北条氏照は深沢山に八王子城を築きその守護神として、元八王子権現を祀りました。
豊臣秀吉の小田原攻めで八王子城が落城したのち、徳川家康の代官大久保長安により現在の八王子の地に新しい横山十五宿(八王子宿)が作られました。
大久保長安は治水や道路整備を行ったほか治安のため武田氏の遺臣をもとに千人同心を組織したと言います。千人同心は地域の治安のほか、日光東照宮の警備や蝦夷の開拓にも関わりました。長安はその後は岩見、佐渡、伊豆金山奉行や老中、勘定奉行としても活躍しました。
八王子駅の駅前を北に、まずはと福伝寺と子安神社を訪ねることにします。子安神社はちょうど七五三の時期、境内は小さな子供を連れた家族連れで賑わっています。拝殿の傍には橘社、神水社、祖霊社と石神社、白山社、稲荷社、御嶽社の末社五社、葦船社、金毘羅神社が祀られています。
葦船神社のご祭神は日留子命(ひるこのみこと)、古事記にも登場する神様で、伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれました。しかし未熟児であったために葦で作られた船で幽世へと旅立たれました。神社は珍しいと水子を祀る社と言います。
しばらく歩くと市守神社・大鳥神社です。かつての八王子宿の入り口に位置し4の付く日、8の付く日に開催された市の守り神として祀られました。江戸時代になると大鳥神社が祀られたました。11月は5日、17日、29日に酉の市が開かれるようで境内には準備の出店が建っていました。
近くには赤い大きな鳥居の八幡神社・八雲神社があります。二つの社が並ぶ珍しい造りの神社です。ここはかつての八王子宿の中心部に位置します。
神社の境内は武蔵七党の一つ横山党の根拠地です。横山党は小野篁の子孫を称し小野党とも言います。前九年の役では源頼義に、保元・平治の乱では源義朝に従いました。源頼朝の挙兵時に活躍して鎌倉幕府の御家人となりますが和田合戦で和田義盛に与同して敗れ、以後衰退したと言います。境内には横山神社が祀られていました。
この日はハロウィン直前の日曜日、たくさんお子供が仮装をして商店街を歩いています。お菓子を配ってくれるお店屋さんも多いようです。
道端には八王子道路元標があります。各市町村に設置された道路の起点・通過点を示すもので国道16・20号の八王子を示すものです。国道16号線の起点横浜の桜木町までは40km、国道20号線の起点日本橋までは45kmとなっているようです。
八日町の交差点から国道16号線を南に、京王高尾線の高架橋の先で道を右折れると臨済宗南禅寺派の斟珠寺(しんしゅうじ)です。境内の池には弁財天が祀られ古い庚申塔や石塔が祀られていました。
湯殿川を渡ると片倉城址公園です。片倉城は大江広元を祖先に持つ長井時広が築城した考えらえています。湯殿川と兵衛川に囲まれた小比企丘陵の東端に位置し本丸、二ノ丸を空堀、土塁で囲まれた堅固な縄張りを持った平山城です。戦国時代まで使用したと考えられ、武田信玄と北条氏の三増峠の戦いでは北条氏照、氏邦が片倉城から出陣しました。片倉城址公園として整備され春にはカタクリが咲くところ、遊歩道沿いにはたくさんの彫刻があります。
二郭、主郭とそれをめぐる土塁や空堀が今も残っています。二郭の芝生の広場には家族連れがピクニックシートを広げていました。
本丸広場の傍には住吉神社が祀られています。ご祭神は海の神である住吉三神、商売繁盛や金運などのご利益があると言います。
片倉城からは御殿峠へと長い登りが始まります。標高差は200m、およそ2kmの単調な登りです。途中には日本文化大学や東京工科大学のキャンパスがありました。それほど急な登りではないもののアスファルトの登りでは足が痛くなってしまいました。
御殿峠の先から大山道は右手の丘の上を通っているようですが道が判らず国道を歩いてしまいました。途中にあった光寶院は真言宗醍醐派の寺院、枯葉や草に覆われ無住になっているようです。後継者不足なのか、このようなお寺も増えていくのでしょう。
やがて左手には八王子バイパスの高架道路、交差点は鑓水のインターです。鑓水とは斜面に竹筒を打ち込んで飲料水を得る方法で地名の由来となったと言います。
鑓水を超えると町田市です。相原坂上から下って行く道からは橋本駅周辺のビル群、曇っているためよく見えないもののその先には大山の頂が見えているようでした。
途中道を右に折れ清水寺に立ち寄ります。赤い奉納幟が立ち並ぶ参道の先に急な石段があります。疲れた足にはなかなか辛い登りでした。本堂の彫刻はなかなか見事なもの、相原観音、坂下観音と呼ばれる聖観音像が祀られる観音堂は町田市の指定有形文化財に指定されていると言います。
香福寺は大きな墓地を持つ臨済宗のお寺です。本堂には、ミツウロコの紋がありますが北条氏との関連はないようです。境内にはコウヤマキの大木がありました。
ここの庭園は庭師福住豊氏により作られたものとか、砂利が敷かれた境内では草取りなどの作業が行われていました。
橋本駅の近くには橋本神明大神宮があります。JR横浜線の線路近くに玉垣に囲まれた境内、その奥に橋本明神大神宮、その左右には天満宮と大鳥神社が祀られていました。
大鳥神社の拝殿には酉の市の案内、「リニア新幹線、JR横浜線、相模線、京王電鉄京王線、古き伝統文化酉の市を地域の繁栄、家内安全、商売繁盛を願い次世代に伝承してまいります」と書かれていました。
酉の市は5日、17日、29日に行われると言います。商売繁盛でお馴染みの熊手なども売られているのでしょう。
帰りは橋本駅から横浜線で戻りました。歩程は14kmほどでしたが神社仏閣の物見遊山、結構疲れる街道歩きでした。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。
黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。
1147~1199年 鎌倉幕府初代将軍。義朝の三男。平治の乱のち伊豆蛭ヶ小島に配流される。1180年以仁王もちひとおうの平氏追討の令旨に応じ挙兵。石橋山の戦いに敗れ安房に逃げたが東国武士の来援を得て関東を制し鎌倉にはいって根拠地とした。平維盛の追討軍を富士川に破り弟の範頼・義経を西上させ、85年壇ノ浦で平氏を討滅し全国を平定。全国に守護・地頭を設置、武家政治の基礎を確立。
1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。
古事記に登場する神、伊弉冉尊(いざなみのみこと)とともに天つ神の命でおのころ島をつくって天降り、国生みと神生みを行った男神です。
黄泉国(よもつくに)の汚穢(けがれ)を禊(みそぎ)した際に、天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読尊(つきよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)などの神が生まれました。
平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。
保元元年(1156年)京都に勃発した内乱。皇位継承に関する崇徳上皇と後白河天皇との対立に、摂関家の藤原頼長と忠通との家督争いが結びつき、上皇・頼長側は源為義・平忠正、後白河・忠通側は源義朝・平清盛らの武士団を招じ入れて戦い上皇方が敗北した。上皇は讃岐に流され、頼長は戦傷死した。この乱はのちの武家政権成立への端緒をなした。
第77代の天皇、在位1155年7月24日~1158年8月11日。鳥羽天皇の第4皇子。即位の際、崇徳上皇と対立、保元の乱を生じた。二条天皇に譲位後、五代にわたって院政をおこない、平氏政権から鎌倉幕府権力の確立に至る変革期にあって朝廷権威の存続を巧みにはかった。1169年出家して法皇となり、造寺・造仏に尽くした。陵墓は京都府京都市東山区三十三間堂廻リの法住寺陵。
1118~1181年、平安末期の武将。平忠盛の長男。白河法皇の落胤とも伝えられる。父の地位と遺産を受け継いで政界に進出。保元の乱・平治の乱により対立勢力を一掃、従一位太政大臣となる。娘徳子を高倉天皇に入内させ官職を一門で独占、知行三十余国に及ぶ平氏政権を樹立した。
保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。
保元の乱(ほげんのらん)の後、平治1年(1159年)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。これ以後、平氏の政権が成立した。
1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。