大山道・赤坂見附から二子玉川駅 


 歩行時間:行動時間 5:50、歩行時間5:50
 歩行距離:19.0km
 累積標高差:+220m、-210m
 往路:地下鉄銀座線・赤坂見附駅、復路:東急大井町線・二子玉川駅
 訪問日:2023年6月4日

 

 コースタイム


赤坂見附駅10:55~赤坂見附11:05~豊川稲荷東京別院11:25~長青山寶樹寺梅窓院~宮益御嶽神社~渋谷駅・スクランブル交差点12:35~大坂~上目黒氷川神社13:00~大橋JCT~池尻稲荷神社~三軒茶屋駅~駒留八幡神社14:00~松陰神社14:20~護国山大吉寺~大悲山明王寺円光院~上町天祖神社~世田谷代官屋敷14:50~用賀神社15:45~如意山大空閣寺~喜楽山慈眼寺~瀬田玉川神社16:20~妙隆山玉川寺~治大夫橋~諏訪神社~二子玉川駅16:45

 

 赤坂見附から二子玉川駅


東海道の街道歩きは箱根の山にたどり着きました。箱根からは三島宿、沼津宿、吉原宿へと続くことになります。

ネット上には東海道を歩くツアーの記事が多くあります。この先は現地集合か宿泊のツアーも多いようです。やはり何処かに宿泊して歩き続けることになるでしょう。少し天気が良くなってからまた歩くことにしたいと思います。

今日は大山道を歩き始めることにします。江戸時代、大山講などで大山への登拝が盛んになると大山道の整備が進みました。主要な大山道は、青山通り、府中通り、八王子通り、柏尾通り、田村通り、羽尾通り、六本松通り、蓑毛通りの8本があります。

青山通りは律令時代より東海道の本道にあたり、鎌倉時代に湯坂道が開かれるまで官道として機能していました。現在の国道246号線に沿って通っていた街道とされています。

赤坂見附の外堀は釣り場
赤坂見附の交差点

歩き始めは赤坂見附、久しぶりに乗った地下鉄の電車は新型の電車に変わっていました。赤坂見附は江戸城にあった36の城門の一つ、首都高速4号線が地下に下って行くところにあります。

しばらく歩くと豊川稲荷です。稲荷社には京都伏見稲荷宇迦之御魂神を祀る神社と、豊川稲荷の荼枳尼を祀るお寺があります。荼枳尼はヒンドゥー教の女神カーリーの侍女で人の肉を食べる夜叉とされていました。仏教に取り入れられてからは大日如来の説法を受けて善神となり、稲荷神と同一視されるようになったと言います。

赤い奉納旗と提灯が建ち並ぶ境内はたくさんの参拝客で賑わっていました。狭い境内には本堂や奥ノ院のほか招福利正大黒天、知徳地蔵尊、知徳地蔵尊などたくさんの社が建ち並んでいました。

豊川稲荷
たくさんの人で賑わう豊川稲荷
奉納旗とたくさんのお稲荷さん
神宮外苑のイチョウ並木

ここから先は低い石垣が続く道、石垣の中は迎賓館や赤坂御所があると言います。しばらく進むと神宮外苑のイチョウ並木です。明治神宮野球場、秩父宮ラクビー場の建て替えによりイチョウ並木が伐採される話が出ているのはこの付近なのでしょう。

渋谷が近づくと宮益坂、かつては富士山を眺めることができたところと言います。右手には宮益御嶽神社、ビルの谷間の中の神社です。古くは吉野山金峯山寺の蔵王権現を祀っていた神仏習合の神社と言います。

竹林の参道の先に梅窓院
ビルの谷間に宮益御嶽神社
再開発が進む渋谷の街
忠犬八公の前はたくさんの人

渋谷は再開発工事が進む町、忠犬ハチ公の前などたくさんの若者で賑わっていました。DJポリスのニュースなどで有名になったスクランブル交差点から道玄坂を登っていきます。ビルの谷間の狭い道はビル風が吹き抜けていました。

道玄坂上からは高速3号線に沿って三軒茶屋に向かいます。途中には大阪の道標があります。江戸から厚木までの大山街道の中で一番の急坂であった所とか、坂上の立場 からは西に大山をはじめ丹沢連山が良く見えたと言います。

スクランブル歩道
道玄坂上は首都高3号線
大坂の道標
上目黒氷川神社

途中、石段を上ると上目黒氷川神社です。長い石段の脇には大山道の道標があります。境内にはメダカやドジョウを飼育しているビニールハウス、その前には手作りの巫女さんが立っていました。

さすが車の流れが激しい国道246号線の跨道橋には、少しわかりにくいものの歩行者用のエレベーターが設置されていました。

巨大なループ橋のような施設は大橋JCT、首都高速3号線と都心環状線を結ぶトンネルです。1週400m、4階構造になったループトンネルが地中へと下って行くところです。

境内に巫女さん
石段に谷大山道の道標
大橋JCTのループトンネル
春は桜で賑わう目黒川

やがて道は目黒川大橋です。春には桜の花のトンネルが続くところで、テレビの桜開花情報などでも紹介されてます。早い時期に河川工事が行われたとようで川底もコンクリートに覆われています。このため豪雨の時は急な増水もあるのか、目黒川や石神井川に氾濫危険情報が発表されることもあったようです。

道路にあったマンホールは東京都の下水道管、合流の文字が刻まれています。東京都の下水道は都心を中心に雨水と下水が合流する方式になっています。明治41年から行われていた下水工事は平成6年に100%完了したと言います。しかし合流方式を採用しているため、大雨などの時は雨水の排水能力を超え下水道水が海に放出されるという問題があると言います。

東京オリンピックのトライアスロン競技で、東京湾水質が安全基準の懸念を指摘されたのは記憶に新しいところです。

池尻稲荷神社は、旧池尻、池沢村の人々に信仰されてきた稲荷社です。境内には涸れずの井戸があり大山道を行き交う旅人の咽を潤したと言われています。

大山道を歩く人は思いのほか多いようです。神社の拝殿では同じような単独の男性が2人、少し若い夫婦も大山道を歩いているようでした。

東京都の下水マンホール
池尻稲荷神社
池尻稲荷神社の拝殿
社殿のわきに英文の参拝作法

また海外から訪れるお客さんも多いようで拝殿には英文で参拝の手法が紹介されていました。

How to worship 1.in front of the hall of worship stand with proper posture. 2. before your pray, bow twice. 3.Clap youre hands twice. 4.yhen bow one more time.

三軒茶屋の交差点を過ぎると駒留八幡神社です。広い境内に稲荷神社、厳島神社などの摂社が多くある神社でした。

三軒茶屋の交差点
駒留八幡神社の境内
駒留八幡神社
松陰神社

東急世田谷線の松陰神社駅の先に松陰神社があります。吉田松陰高杉晋作伊藤博文など明治維新の英傑を育てた教育者として知られています。安政の大獄で30歳の若さで刑死しました。境内には山口の萩にある松陰神社と同じ松下村塾のレプリカがありました。

松下村塾のレプリカ
東急世田谷線の松陰神社駅
護国山大吉寺
円光院

周辺の道沿いには世田谷代官のおひざ元の幟が掲げられています。江戸時代中期以来、彦根藩世田谷領20か村の代官を世襲した大場家の役宅(世田谷代官屋敷)があったところです。訪れる人は多くないようですが母屋内部が公開されていました。

上町天祖神社
世田谷代官屋敷の茅葺門
世田谷代官屋敷大場家住宅
桜新町はサザエさんの街

ここからは大山道を離れ桜新町へ、アニメなどでおなじみのサザエさんの舞台となった街は東京都世田谷区桜新町あさひが丘3丁目と言います。桜町駅周辺の商店街にはマスオさんとサザエさん、イクラちゃんのブロンズ像が立っていました。

東急田園都市線に沿った坂道を下ると用賀神社です。広い境内には幸福稲荷神社が祀られています。

用賀駅へと下っていく坂道には思いのほか多くの寺社があります。用賀神社の周辺は標高38m、二子玉川駅が標高12mですのでかなり急な坂を下ることになります。ここは野川が多摩川に合流する地点、国分寺からお鷹の道で歩いた時にあった国分寺崖線は多摩川が武蔵野丘陵を土削った河岸段丘、二子玉駅で多摩川の岸辺に近づき、田園調布付近まで続いていると言います。

用賀神社
境内末社の幸福稲荷社
大空閣寺
慈眼寺

大空閣寺慈眼寺を超えると瀬田玉川神社です。村内にあった八幡神社、天祖 神社、熊野神社等を合祀して瀬田村の村社、瀬田玉川神社となった神社です。急な石段を上り返しましたが慈眼寺から直接参拝することができるようです。

鳥居の先に瀬田玉川神社の石段
瀬田玉川神社の拝殿
妙隆山玉川寺
玉川寺の本堂

急な慈眼寺坂を下ると治太夫橋です。ここは江戸時代に始め開削された農業用水、現在の丸子川を渡る橋です。ここからは賑やかになった二子玉川の商店街が続いていました。

治太夫橋
諏訪神社の石段
諏訪神社の拝殿
二子玉川駅

多摩川の堤防沿いに諏訪神社があります。多摩川大洪水の際に当地に流れ着いた像を神体として勧請した神社と言います。珍しく社務所の屋上に社殿が祀られた神社でした。

今回の大山道の街歩きは二子玉川駅まで、次回は田園調布線を利用して二子玉川駅から歩き始めることにします。溝ノ口から先は昨年の暮れに歩いた鎌倉街道中道と一部重複するところもあるようです。

 

 コース GPSmap


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 その他のコース・山行記録


 

 宇迦御魂命・宇迦之御魂神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)

古事記、日本書記に登場する神です。須佐之男命と神大市比売の子です。農耕の神、商工業の神、商売繁盛の神としても信仰されていて全国の稲荷神社で祀られています。

 

 荼枳尼天・荼吉尼天 (だきにてん)

インドの民間信仰から密教によって仏教に取り入れられた仏。人の死を6か月前に予知してその心臓を食うとされる。日本では、稲荷神、飯綱権現と同一視されています。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

 高杉晋作(たかすぎしんさく)

1839~1867年、幕末の志士。長州藩士。吉田松陰門下。下関砲撃に備えて奇兵隊を結成、また1865年以降、藩の主導権を握って藩論を倒幕に転換、第二次長州征伐の幕府軍を圧した。

 

 伊藤博文(いとうひろぶみ)

1841~1909年、幕末から明治の政治家。吉田松陰に学び倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。明治18年(1885年)内閣制度を創設、初代総理大臣となった。枢密院・貴族院の初代議長を歴任。立憲政友会を組織し総裁に就任。日露戦争ののち初代韓国統監となった。ハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

 

 安政の大獄(あんせいのたいごく)

安政5~6年(1858~1859年)、大老井伊直弼が行った尊王攘夷派への弾圧。安政の仮条約や、家茂を14代将軍に定めたことに反対する一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰・橋本左内ら8名を死刑とした。

 

 素戔嗚尊・須佐之男命(すさのうのみこと)

日本神話に登場する神で出雲神話の祖神とされています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で天照大神の弟とされています。

高天ヶ原で多くの乱暴を行ったことで天照大神が怒り天の岩戸にこもり、高天ヶ原から追放されました。出雲に下り八岐大蛇を退治し奇稲田姫命(くしなだひめ)を救ったとされています。

 

 高杉晋作(たかすぎしんさく)

1839~1867年、幕末の志士。長州藩士。吉田松陰門下。下関砲撃に備えて奇兵隊を結成、また1865年以降、藩の主導権を握って藩論を倒幕に転換、第二次長州征伐の幕府軍を圧した。

 

 伊藤博文(いとうひろぶみ)

1841~1909年、幕末から明治の政治家。吉田松陰に学び倒幕運動に参加。のち明治憲法立案に当たる。明治18年(1885年)内閣制度を創設、初代総理大臣となった。枢密院・貴族院の初代議長を歴任。立憲政友会を組織し総裁に就任。日露戦争ののち初代韓国統監となった。ハルビンで韓国の独立運動家安重根に暗殺された。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

 井伊直弼(いいなおすけ)

1815~1860年、江戸末期の大老。近江彦根藩主。将軍継嗣問題で水戸派と対抗、14代将軍に紀州家の慶福(よしとみ・家茂)をつけた。また1858年、勅許を待たず安政五か国条約に調印。これに反対する勢力を弾圧して安政の大獄を起こし、1860年、桜田門外で水戸浪士らに暗殺された。

 

 吉田松陰(よしだしょういん)

1830~1859、幕末の志士で思想家。長州藩の下級武士杉常道の子。10歳にして藩校明倫館で講義を行った。山鹿流軍学師範を務め、江戸に出て佐久間象山に師事。安政4年松下村塾をひらき高杉晋作伊藤博文らに教えるが安政の大獄で刑死した。

 

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