片倉城は室町時代、大江広元を祖先に持つ長井時広が築城した考えらえています。湯殿川と兵衛川に囲まれた小比企丘陵の東端に位置し本丸、二ノ丸を空堀、土塁で囲まれた堅固な縄張りを持った平山城です。
戦国時代まで使用したと考えられ、武田信玄と北条氏の三増峠の戦いでは北条氏照、氏邦が片倉城から出陣しました。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の八王子城落城時に落城しました。
現在片倉城址公園として整備され、公園内には多くの彫刻などがあります。また春にはカタクリの群生地がある。
《片倉城の案内・東京都教育委員会》
片倉城跡は、湯殿川と兵衛川の合流点を臨む北東方面に張り出した丘陵先端部に位置する中世城館です。北・東・南の外周部は約30mの急崖となっており、自然地形を生かした城郭です。西からの丘陵頂部は平坦ですが、深い空堀により画された主郭と第二郭からなります。現道の配置等から第二郭の西方にも堀切りがなされ、三郭からなる直線連郭式城郭であった可能性もあります。空堀により画された二つの郭には土塁や櫓台、腰曲輪、土橋などが良く残ります。
『新編武蔵風土記稿』などでは応永年間(1394一1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。
築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。