愛甲石田駅10:30~浄心寺10:40~長龍寺10:55~小金神社11:05~白金地蔵~スシロー伊勢原店11:40/12:20~高部屋神社12:45/55~丸山城址13:10~咳止地蔵尊13:30~菅原神社13:40~金光寺14:15/20~太田神社14:30~大山道と千石堰用水路~道灌塚前バス停14:40
大山街道の街道歩きは愛甲石田駅からです。小田急線を超えるとたくさんの車が走る国道246号線、国道沿いには浄土宗の浄心寺があります。
茅葺の山門の傍には赤い帽子をかぶった六地蔵が祀られていました。本堂の前には賽銭箱がありません。境内にたくさんの墓地を持つ檀家寺のようでした。
ほどなく大山道は国道を離れ住宅地の中へ、浄土真宗本願寺派の長龍寺に立ち寄ることにします。ここは江戸時代初期に開山されたという古刹です。ここもまたたくさんの墓地を持つ地元の檀家寺のようでした。
長龍寺の裏手の丘の上には小金神社があります。急な石段の上には拝殿、その傍には神楽殿や鐘楼もある神社です。伊勢原市のホームページによるとここは小金塚古墳跡、弥生時代から集落が営まれたところと言います。
道端に祀られた白金地蔵の小さな祠、傍には色あせた案内板があります。万延元年(1860年)にこの地の住人茂田半左エ門が建立したものとか、数度の移築ののち平成7年(1995年)この地に移築したものと言います。
歩き始めが遅かったこともありそろそろ時計は11時半を過ぎています。第2東名の高架近くのスシロー伊勢原店で少し早い昼食にしました。
この付近は第2東名の高速道路工事で道が付け直されたところです。少し道を間違いながらたどり着いた高部屋神社は延喜式の相模国13座の1社と言います。境内には大山道の道標である庚申供養塔があります。古い石面には「此方かしを道」、東海道の戸塚から続く柏尾道が通るところです。広い境内に茅葺の拝殿、その奥には五間社流造の本殿がありました。
ご祭神は三筒男命(住吉大神)、糟屋住吉の大神として武門、武士をはじめ万民に崇敬された社と言います。案内板によると本殿は五間社流造り、神奈川県の五間社の本殿は鶴ケ岡八幡宮若宮本殿、箱根神社本殿、大磯の六所神社など名だたる神社にしかないとされていました。
また古い梵鐘は至徳3年(1386年)平秀憲によって奉納されもので、古い歴史を今日に伝えるものと言います。
国道246号線を挟んだ小山は丸山城址です。案内板によると糟屋左衛門尉有季の居城で当時は糟屋城と呼ばれていました。糟屋氏は藤原氏の一族で、平安時代末に藤原如丘が相模守として東国に下向し、そのまま任地に土着したと言います。
伊勢原市教育委員会が行った調査では堀、土塁、竪穴状遺構などの城郭遺構が確認されました。鎌倉時代の遺物の他に室町時代後半のかわらけや陶器なども出土したことから、上杉定正に関連する城館(糟屋館など)とも推定されています。
糟屋荘には、扇谷の上杉持朝が相模守護となった時に役所が置かれ、上杉館(糟屋館)が建てられました。産業能率大学のある台地がその場所と推定され、高速道路の工事に伴い発掘調査が行われていた記憶があります。
東海大学附属病院の周辺は新しい住宅地の中、渋田川を渡る橋の傍には小さな祠が祀られています。現地の案内板によると現在の石像は享保8年(1723年)の再建、ここは相模川の戸田の渡しから続く戸田道で大山参りの人でにぎわったところと言います。
やがて道は渋田川を離れ梅畑の中を歩くことになります。すでに春も本番、菜の花やムラサキハナナ、ハナニラなどの花が咲き始めていました。
道端には手作りの休憩所、さらにその先は古い浮世絵にも描かれた三軒茶屋があったところと言います。
しばらく住宅地の中を歩くと東名高速の下をくぐり金光寺へ、見上げる大きな金光観音が建っています。たくさんの墓が建っていますが六地蔵の前のお堂は閉まったまま、住職もいないようでした。
やがて道は三所石橋造立供養塔へ、この周辺は大田道灌が主君上杉定正により暗殺されたところで洞昌院には太田道灌の首塚もあります。
近くには太田神社がありました。神道の神社ということですが現地には案内板もなく詳しいことは判りません。天理教、金光教をはじめ神社神道とは異なる教派神道があるようです。太田神社もその中の一つ大教神道の神社と言います。
大山道と千石堰用水路の道標を超えると道灌塚前バス停はすぐ近くです。まだ大山ケーブルまではまだ5kmほど、今日はこのバス停をGoolとしました。
1432~1486年、室町中期の武将。上杉定正の執事となり江戸城を築城。山内上杉家の内紛を鎮圧したが、かえって扇谷上杉家の勢力増大を恐れた山内上杉顕定(あきさだ)方の讒言により、主君定正のため謀殺された。兵法に長じ、和漢の学問や和歌にもすぐれた。