道灌塚前バス停9:20~愛宕滝10:40~良弁滝10:50~大山ケーブルバス停10:55~大山ケーブル駅11:20=(大山ケーブル)=阿夫利神社駅11:25/50~(女坂)~大山ケーブルバス停12:45
大山街道の街道歩きは道灌塚バス停からです。そろそろ梅雨の時期を迎えようとしている時期、台風1号が関東に近づく前の晴れが期待できる一日です。
太田道灌の歴史が残る道灌塚前でバスを降りると、目の前には頭を雲に隠した大きな大山がそびえていました。大山道の千石堰用水路の道標から流れに沿った緩やかな登りが始まります。上粕屋の交差点で県道に出ると近くでは発掘調査が行われていました。周囲には旧石器時代の遺構が多くあると言います。
大山街道沿いには石倉神社や比々多神社が祀られています。比々多神社は子易明神とも呼ばれ子宝や安産にご利益がある神社として崇拝されています。延喜式内相模十三社の一つに数えられる古い神社です。
道端の新しい建物のお寺は易住寺、浄土宗の寺院のようで草木の生い茂る境内にはお地蔵さんが祀られていました。
諏訪神社は地元の鎮守社でしょうか、境内には子供公園のブランコがありました。ご祭神は健御名方命(たけみなかたのみこと)のようですが境内に由緒書きなどは見当たりません。
阿夫利神社三の大鳥居をくぐると程なく歓迎・大山国定公園の大きな門が建っています。1965年3月に丹沢山地一帯が丹沢大山国定公園に指定されました。国立公園は国が直接管理する公園で全国に31か所、国定公園は都道府県が管理するもので全国に56か所あると言います。何れも環境大臣が指定する自然公園です。
愛宕滝は大山詣での参詣者が身を清めた滝、良弁の滝などとともに大山六滝に数えられます。
この先からは大山の御師宿街が始まります。江戸時代に盛んになった大山詣ででは各地に大山講が結成され団体での参拝が行われました。御師が経営する宿坊は講中の宿泊、参拝斡旋などを行いました。提灯を掲げる東学坊も古い歴史を今に伝える御師宿の一つと言います。
また大山は江戸火消しの崇拝を多く集めているようです。「先導師旅館おく村」は江戸火消しの定宿であったのか第三、二番筒先中の石柱が建っています。近くには東京六区消防組の石碑が祀られていました。江戸火消し「いろは組」の一つで、明治時代に幾つかの組が再編され六区になったようです。現在の江東区、墨田区を受け持っていたと言います。
しばらく歩くと良弁の滝です。大山寺を開山した良弁が最初に水行を行った滝で高さ一丈三尺(三メートル九四センチ)、江戸時代の錦絵の題材として登場する滝です。
さらに登ると大山ケーブルバス停、大きなトイレの上が市営第2駐車場です。
この先はこま参道、大山へと登るハイカー、阿夫利神社へと向かう観光客など平日にもかかわらず思いのほか多くの人が石段を登って行きます。
ケーブル駅まで15分、362段、石段に書かれたコマの数を頼りに登って行きますが気温もかなり上がっているようでなかなか疲れる登りでした。
たどり着いたケーブルカー駅からはケーブルで15分、眼下に開ける相模湾や江の島を眺めながら登って行くと阿夫利神社駅にたどり着きました。
阿夫利神社の拝殿までは長い石段が続いています。振り返ると霞んだ相模湾、雲の下に霞むのは三浦半島の山々でしょう。
朱塗りの大きな拝殿は関東総鎮守社、大山の山頂へと続く登山道は拝殿脇の登拝門から1時間半ほどの道程。これから山頂を往復するのは少しきついものです。大山山頂までは何度も登っていますが秋の涼しい時期にでも改めて登ることにします。
阿夫利神社の創建は崇神天皇の時代に創建されたと伝えられ、相模国の延喜式内社13社に列せられていました。天平勝宝4年(752年)良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、山頂に阿夫利神社を建立し、大山を神仏共に信仰する山岳宗教の聖地になりました。
中世以降は大山寺を拠点とする大山修験が盛んになり、源頼朝をはじめ北条氏、徳川氏など武家の崇敬を受けていました。
戦国時代の大山修験は小田原北条氏の支配を受けていました。徳川家康が天下を取ると小田原征伐に際し徳川方に敵対したこともあり大山山中から修験勢力を一掃しました。これにより下山を命じられた修験者たちは山麓に居を構え御師として宿坊や土産物屋を運営することになったと言います。
江戸時代には大山講が関東各地に組織され多くの庶民が大山詣でに訪れるようになります。大山詣では6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があっと言います。良弁滝と大滝で身を清め山頂の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰ったと言います。
大山詣では江戸の人口が100万人であった時代、年間20万人もの人が参拝に訪れたと言います。信仰の対象に加えて帰りがけに江の島や鎌倉などの観光地に立ち寄る5日ほどの旅は娯楽が少なかった当時の人の心を捉えたのでしょう。
江戸時代までは石尊大権現・大山寺と呼ばれていましたが明治の神仏分離令により阿夫利神社として改称しました。この時、多くの仏像が棄却されたと言います。
その後、大山寺は女坂の途中に場所を移し再建されました。
阿夫利神社からは女道を下ることにします。「従是女坂道」の古い石柱から急な下りの階段が始まります。古い石段は良く整備され手摺も付いていますがなかなか急な下りです。しばらく階段を下ると女坂七不思議の潮音洞、無明橋などなどが現れます。
やがて大山寺の本堂です。廃仏毀釈により破壊された本堂は明治18年に全国からの信者の寄進により再建されたと言います。
成田山新勝寺、高幡不動、不動ヶ岡不動尊、高山不動丘などとともに関東三大不動尊の一つにも数えられている古刹です。
本堂前の急な石段は秋にモミジの名所として知られたところです。女道は石の階段を下りながから追分社へと下ってきます。たどり着いた追分社は八意思兼神社、古事記に語り継がれる天の岩戸で天照大御神を外界に戻す知恵を考え出した神様です。
ここで男坂からの道を合わせると程なくケーブルカー駅にたどり着きました。こま参道の石段の道は疲れ始めた足には思いのほかきつい下りです。
道端の土産物屋さん、豆腐料理のメニューを表示する御師宿を見ながら急坂を下って行きます。
大山ケーブルバス停にたどり着いたのは12時45分、タッチの差で伊勢原行きのバスが出発、30分の待ち合わせとなってしまいました。
大山ケーブルのバス停には大山詣りの浮世絵がありました。
大きな木刀を担いだ安藤広重の浮世絵、良弁の滝や大滝などが描かれています。鎌倉・江の島・大山の観光地を描いた新板往来双六、この時代は版木での印刷だったことがうかがえるものです。