海老名駅10:15~安養院10:55~あゆみ橋11:15~厚木神社11:30~最勝寺~三嶋神社12:55/13:00~稲荷神社13:15/30~円光寺13:55~愛甲大塚古墳14:15~愛甲石田駅14:20
大山街道の街道歩きは海老名駅からです。小田急の駅前はたくさんの人でにぎわっていました。
小田急線を渡る跨線橋からは青空の下に大きな大山の頂が見えます。その山頂には電波塔のアンテナも見え隠れしています。
相模川に沿って下って行く高架は圏央道です。しばらく下って行くと曹洞宗の安養院、その境内には三眼六足稲荷大権現が祀られています。鳥居近くの由緒書きにはこの地に住んでいた白狐が田畑を守護したと書かれていました。境内には県下名勝史蹟四十五佳選 ・三眼六足稲荷大権現の石碑が建っていました。
あゆみ橋で相模川を渡ります。相模川は忍野八海や山中湖を水源とする1級河川で、上流の山梨県では桂川、河口付近では馬入川と呼ばれています。堤防沿いには「じょう橋碑」があります。碑文によると「昔は渡船で渡っていたが明治の末期に常設橋が架かり、常にある橋。常にわたれる待望の橋。そんな思いから言い伝わった橋」と紹介されていました。
ここからは県道沿いの道を南に、舗装道路沿いの町並みは相模川の渡船や大山詣で賑わったかつての厚木の中心地です。
しばらく歩くとかつて厚木村の鎮守であった厚木神社です。相模川を背に、あつぎお天王様と言われた社と境内社の厚木稲荷神社が祀られていました。また那須与一が眼病平癒を祈った神社とも伝えられているところです。
2階建てなど背丈の低くなり始めた街並みに沿って最勝寺や厚木熊野神社が祀られていました。厚木熊野神社のご神木は樹齢450年と言われる銀杏の木、古くから熊野の森と言われ、渡辺崋山の厚木六勝の一つ熊林ノ暁鴉(ゆうりんのぎょうあ)として描かれています。渡辺崋山は江戸時代の蘭学者、モリソン号事件をきっかけとした蛮社の獄により蟄居、自殺したと伝えられています。
大きなソニー厚木テクノロジーセンターからさらに県道に沿って歩くと伊豆三嶋神社の大山祇神を勧請した三嶋神社です。
拝殿には節分にちなんで鬼と福が掲げられていました。参拝に訪れた人がこれに向かって豆を撒く習わしがあるようでビニールのシートが張られていました。
東名高速の高架橋をくぐると浄土真宗東本願寺派の長徳寺です。わずかに歩くと西本願寺派の法徳寺です。東本願寺と西本願寺の対立は戦国時代、織田信長の石山本願寺攻めに遡ると言います。5年間に続く戦いののち本願寺の宗主顕如は信長と和睦、これに対し長男の教如は徹底抗戦を唱えたました。その後、顕如は豊臣秀吉から土地の寄進を受け七条堀川に御影堂、阿弥陀堂を建築、これが現在の西本願寺です。徹底抗戦を唱えた教如は徳川家康に接近し七条烏丸に寺の寄進を受けました。これが現在の東本願寺と言います。
江戸時代は対立が深かったようですが、現在は真宗教団連合という組織もあり交流も進んでいると言います。でも、東本願寺のお寺と西本願寺のお寺がすく近くにあるのは珍しいのかもしれません。
厚木インターの先、朽ちかけた石仏が祀られた交差点で道を右に、愛甲石田へと書かれた道標の先には大きな大山の頂がそびえています。
小さな川は玉川、その川岸には真新しい道祖神が祀られていました。わずかに歩くと右手に希心会という大きな建物、いずれの宗派にも属さない法華経系の新興宗教と言います。女優の樹木希林が信仰していたという話があるようです。
近くには小さな稲荷神社がありました。境内には滑り台がある小さな公園もあります。祠には繭玉が飾られていました。鳥がつついたのか繭玉の先がかじられていました。
小田原道路の高架橋をくぐりしばらく歩くと竜宮造りの山門がそびえる円光寺です。山門には葵の紋、僧兵武術道場の看板が掲げられている曰くありげなお寺です。
境内にいた若い方はこの寺の僧侶か。郷土の歴史に詳しいようで愛甲石田の地名は厚木市の愛甲と伊勢原市の石田にまたがることから名付けられたとか、また愛甲は鎌倉時代の御家人、愛甲季隆に由来していると言います。弓の名人として知られ、畠山重忠の乱では愛甲季隆の放った矢で重忠が撃たれたと伝えられていると話していました。
愛甲石田駅の近くには愛甲大塚古墳があります。住宅地の中の小さな丘は4世紀ころの前方後円墳とか、古くは車塚と呼ばれていたと言います。
今回の街歩きは愛甲石田まで、赤坂御門から大山の山頂までは70㎞ほどと言いますが物見遊山、寄り道が多い街歩きは今回が6回目、まだまだ山頂までは遠いものでした。