長後駅9:35~六会橋10:05~庚申塔10:20~庚申塔10:23~豊受大神10:45~庚申塔11:15~用田の辻11:25~地蔵堂11:30~目久尻川・馬頭観音11:37~本郷ふれあい公園11:40/50~寿閑寺11:55~真光寺12:05~大山道標~不動堂12:20~延命地蔵堂~地蔵堂~居合坂12:30~相模線踏切~正覚寺12:45~渋沢神社12:50~戸田の渡し跡・門沢橋の大山不動13:00~戸沢橋13:20~石仏~天宗寺・大山道標13:42~大山道標14:10~法眼寺~普済寺14:50~高部屋神社~粟窪入口15:00
長後からの柏通り大山道の街道歩きです。長後駅の狭い駅前には商店街があるもののあまり人の流れは多くないようです。下戸棚公園の交差点で長後725号線を分かれ細い道を進むと引地川です。かつての大山道はこの先で引地川を渡っていたようですが、現在は県道の六会橋で引地川を渡ることになります。
車の流れも多い用田バイパスを歩くようになると3基の庚申塚が祀られていました。中央の庚申塔には天保7年 申二月日と刻まれています。天保7年(1836年)は江戸時代の後期で天保4年から8年まで天保の大飢饉が起った時代です。
葛原の先で用田バイパスを分かれしばらく歩くと豊受神社です。現地に由緒書きなどはありませんが日本神話に登場する食物・穀物を司る女神、豊受比売命を祀る神社と言います。
御所見中学の前の三叉路には歩道橋があります。この下には大山道標がありました。青面金剛が刻まれた庚申塔で、右面に「従是 ふちさわ江のしまへ乃道」、左面に「従是 かしをとつかへの道」と刻まれていると言いますがかなり石面は崩れていました。
程なく道は用田の辻、案内板には藤沢宿から厚木へと向かう厚木道が大山道と合流し、江戸から大磯宿へと向かう中原街道が交差する辻と言います。中原街道は江戸虎御門と平塚の中原御殿を結ぶ街道で現在の県道45号・丸子中山茅ヶ崎線です。
新幹線の高架橋の下を通ると目久尻川を渡る用田橋です。近くには防災公園を兼ねた本郷ふれあい公園があります。広い芝生には小さな子供連れが遊んでいます。この公園のベンチは災害時に煮炊きができる釜土になると紹介されていました。
近くの石段の上には日蓮宗の寺院、寿閑寺があります。石段を登ると境内の奥に本堂、開基となった乃木助左衛門の父は、源頼朝の重臣佐々木高綱の末裔で、子孫に乃木希典将軍を輩出していると言います。
ここからは自然と歴史のさんぽみちと呼ばれるのどかな道で耕作地なども目立ちます。横浜伊勢崎線と合流した道は本郷の交差点で道を南に、古い街道をたどる道には大山道標や不動明王と二十三夜供養塔を祀る不動堂、子育て地蔵を祀る延命堂がありました。
緩やかに下って行く道は居合坂と呼ばれるところ。柏尾通りの標柱には「居合は村共有の入会地が転訛したもの」と紹介されていました。
相模線の踏切を超えると正覚寺です。高野山真言宗寺院の寺院で本尊は江戸時代前期の十一面観音菩薩坐像と言います。江戸時代には現在の渋谷神社である神壽稲荷社の別当社でした。
近くには渋谷神社があります。境内の由緒書きによると江戸時代には旧門沢橋村の鎮守で、明治7年現在の渋谷神社に改名したと言います。
延宝7年(1679年)鋳造の鐘が鐘楼にあることから、その成立は同時代初期に遡ると紹介されていました。
程なくたどり着いた戸田の渡し跡、赤く塗られた大山道標が祀られています。かつては戸田の渡しから渡船で相模川を渡ってたと言います。
大きくなった大山を目の前に戸沢橋で相模川を渡ります。戸沢橋のたもとにはたくさんの古い石仏が祀られていました。近くには圏央道の高架橋、その先には新東名道の海老名JCTがあります。近くには流通関連会社などがあるのか、道端には荷待ちや時間待ちのトラックが並んでいました。
たくさんの車が走る横浜伊勢原線、曇に包まれる大山を眺めながら下糟屋へと向かって歩いて行きます。
畑田橋からは渋田川沿いの道を歩くようになります。この周辺は秋に彼岸花が咲くところと言います。
やがて小田急線の踏切を超えると法眼寺、さらに大きな石造多宝塔がある普済寺があります。
その先が高部屋神社、相模国の延喜式内社十三社の内の一社とされています。ここは青山通り大山道でも歩いたことのあるところです。
大山道・柏尾通りの終点は下糟屋の交差点としました。歩行距離が長かったためかスマホは途中でバッテリー切れ、mobileバッテリーもバッテリー切れです。スマホ便りの生活に慣れ過ぎるとGPSやネットなどが使用できなくなると大変と言うことでした。