かつての横山町の中央に位置し八幡神社と八雲神社を合祀したものです。境内の奥にある拝殿は八幡宮と八雲社が棟を並べた珍しい造りの神社です。
神社の境内は武蔵七党の一つ横山党の根拠地です。武蔵七党は平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として勢力を伸ばしていた同族的武士団です。横山党は小野篁の子孫を称し小野党とも言います。前九年の役では源頼義に、保元・平治の乱では源義朝に従いました。源頼朝の挙兵時に活躍して鎌倉幕府の御家人となります。しかし和田合戦で和田義盛に与同して敗れ、以後衰退したと言います。境内には横山神社が祀られていました。
《市守神社・大鳥神社の由緒書き》
●両社の御祭神
八幡神社は祭神、誉田別尊(ほんだわけのみこと)と申し、人皇十五代応神天皇で、文武両道の祖神と崇められ、開運、厄除、家内安全、交通安全、安産、学業成就などの広大な御神徳があるといわれております。
八雲神社は祭神素鳴尊(すさのおのみこと)と申し、国土を経営され、功績多く、八岐の大蛇を退治された、武勇すぐれた有名な神様であり国土安全、厄除、商売繁盛、学問、縁結びなどの御 神徳があるといわれております。
●八幡神社の創立
八幡神社は、延長2年(924)、武蔵守隆泰が国司の時、此の地へ、石清水八幡宮をまつり、国土安全を祈願したのが当社の起源であります。天慶3年(940)隆泰の長子、小野義孝は、武蔵権之守に任ぜられて当地に来り、父の遺志を継いで、八幡宮を再建し、任期が満ちたので、此地に永住する事になったのであります。そして、先ず小野氏を横山氏と改め、追々当地を開拓して、遂に一村落を形造り横山村と呼びました。之が当八王子の始まりであります。義孝は八幡宮を中心に祭政一致を行いました。此人が武蔵七党の一つである横山党の始祖で横山義孝と申す方であります、八幡神社は、実に、八王子草創の神で、当時は横山之庄(八王子を中心に方数里)の総鎮守でありました。又、境内にある横山神社は開祖横山義孝公をまつった社で、その創立は、建保年間(1213~1218)であります。
●八雲神社の創立
八雲神社は、俗に天王様と申し、延喜16年(916)大伴妙行が、深沢山(元八王子城山の古い名称)の頂上に奉斎し、天正年間北条氏照が、此山に城を築いてから、氏神として、崇敬しました。天正18年(1590)6月落城の時、城兵は、天王の神体を奉蔵し、川口村黒沢の地に秘かに逃れ、北条残党の氏神として、崇敬していました。慶長3年(1598)6六月、大洪水のため、神体は流失し、遂に八王子新町の北なる、板屋ケ淵に漂着し、暗夜に御光を放ち、現れたのを、6月13日未明、新町百姓五兵衛という者が之を発見し、自宅土間の臼上に移し、初穂の小麦を煎って供物とし、朝夕礼拝している内、或夜、夢の中に、不思議な神勅を受け、宿長、長田作左衛門の助力を乞い、八幡の社内に遷座しました。それから、承応2年(1653)に至り、八幡宮と棟を並へ社殿を建て、世に両社と尊崇され、長く当地の氏神となったのであります。
古事記、日本書記に登場する神です。須佐之男命と神大市比売の子です。農耕の神、商工業の神、商売繁盛の神としても信仰されていて全国の稲荷神社で祀られています。
日本神話に登場する神で出雲神話の祖神とされています。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子で天照大神の弟とされています。
高天ヶ原で多くの乱暴を行ったことで天照大神が怒り天の岩戸にこもり、高天ヶ原から追放されました。出雲に下り八岐大蛇を退治し奇稲田姫命(くしなだひめ)を救ったとされています。