湯河原梅園9:45~林道分岐10:05~クスノキの純林10:10~救世観音分岐11:20~しとどの窟12:00/10~椿台12:35~城山13:05/14:00~城願寺15:05~湯河原駅15:20
この時期、湯河原は梅の香りに誘われたくさんのお客さんが訪れるところです。また湯河原は鎌倉幕府を築いた源頼朝旗上げの歴史を今に伝えるところです。
治承4年(1180年)以仁王の令旨を受けた源頼朝は伊豆で挙兵、平家目代山木兼隆を討ち取りました。石橋山の合戦で頼朝は平家方の大庭景親らに惨敗するも辛くも逃げ延び、真鶴から船に乗り房総半島に渡ります。このとき身を隠したのがしとどの窟、近くにはかぶと石、立石などの歴史の匂いが今も残っているところです。
湯河原駅前から箱根登山バスで湯河原梅園に向かいます。箱根の山が近いこともあって梅園の梅はまだ3分咲きと言います。
それでもカメラを肩に園内を散策する夫婦連れや幕山に向かうハイカーがチラホラ、広場には売店も出ていました。
ネットで見付けた山行記録では近くにクスノキの純林があると言います。しとどの窟へ林道経由6Kmと書かれた道標を左に分け林道を進むとかながわの美林50選にも選ばれたクスノキ純林の案内板がありました。
小砂利なども敷かれ良く整備された道のようですがあまり人は入っていないようです。小さな沢に沿って登って行く道はジグザグを切りながら左岸の稜線へと登って行きます。たどり着いた菜畑林道は白金林道を経て白銀橋へと続く道です。目の前には幕山と星ヶ山、白銀山へと続くなだらかな稜線が見えていました。
ここで道を左に、車の轍も薄い林道をゆるやかに下って行きます。この時期、日差しの薄い林道は凍ってはいないものの寒々としていました。
救世観音が祀られた分岐から山道が始まります。照葉樹の林の中を登って行く道は小さな沢を渡りながら高度を上げていきます。
しばらく登ると石灯籠や石仏が祀られたしとどの窟です。広場の前には石山の合戦で敗れた頼朝が身を隠したとされる歴史の一幕が紹介されていました。
ここは地蔵信仰の地と言われ暗い窟屋の中にはたくさんの石仏が祀られています。また神奈川の心霊スポットとしても知られています。古い石仏は風化が進み「ここで首のない地蔵を3体見つけた者は呪われてしまう」という噂なども囁かれているようです。
しとどの窟から石灯籠や石仏が建ち並ぶ坂道を登って行くと城山隧道の広場です。白銀林道のゲートがあるところで付近には古い石仏や苔むした石塔が祀られれいました。
城山隧道を越えると程なく椿台です。かながわの景勝の地50選にも選ばれ湘南の海を一望することのできるところです。広がる湘南の海には初島と大きな大島、その右には利島が霞んでいました。
椿台からは明るい遊歩道のような道を城山へと向かいます。稜線上の小さなピークが土肥城址であった城山です。
土肥城は土肥氏の詰めの城とされていましたが実際には大森氏か北条氏の支城であろうと推測されています。山頂には大きな土肥城址の碑があり、山頂を主郭とする稜線上には堀切も見付けることができます。
土肥氏はかつて足下郡土肥郷と呼ばれた湯河原に勢力を広げた平氏の一族です。頼朝の挙兵にあたって土肥実平は嫡男遠平とともに参陣、その後の鎌倉幕府草創に当っては、軍艦、追捕使、宿老として多くの功績を残したとされています。
土肥実平は湯河原近くに屋敷を構えたとされ駅前には土肥実平公と夫人の銅像が置かれています。
実平の嫡男遠平は小田原に勢力を広げ小早川を名乗り小田原城を築いています。土肥氏は鎌倉時代に勢力を失いますが庶流は安芸小早川として山陽を代表する武家として歴史の舞台を飾ることになります。
山頂には東屋があります。西から流れる雲に乗ってパラパラと細かい雨が落ちてきました。
帰りは湯河原駅に下ることにします。緩やかに下って行く尾根道には堀切や曲輪跡などもあるようですが案内板などはありません。しばらく下ったところがピクニックランドです。目の前は広く開け湯河原の街並みの先に真鶴の半島が海に突き出していました。
ピクニックランドからは舗装道路の下りが続いています。途中の林の中には立石やかぶと石などがあるようです。すでに最盛期を過ぎたみかんの畑は収穫を終えたのか、たくさんのみかんが地面に落ちていました。
しばらく下ると城願寺です。ここは土肥一族の菩提寺とされ境内には頼朝七騎の木像を安置する七騎堂や樹齢800年という天然記念物のビャクシンがありました。ここから湯河原駅は舗装道路をわずかに下って行くだけです。