全国に点在する1,300社余りの浅間神社の総本社です。延喜式神名帳の名神大社、駿河国浅間神社とされる古い神社です。
古くから噴火を繰り返してきた富士山は火山神、浅間信仰の山として信仰されてきました。噴火を神の怒りと考え富士山本宮浅間神社をはじめ北口本宮富士浅間神社、小室浅間神社など富士山を取り囲むように多くの浅間神社が祀られています。
富士山の8合目以上は浅間大社の境内と言います。富士山の山頂に奥社が祀られ、山麓に富士山を遥拝する山宮、湧玉池の傍に里宮である浅間大社が祀られています。かつては浅間大社と山宮浅間神社を往復する山宮御神幸が行われていたと言います。
浅間大社を訪れたのは11月3日、折からの例大祭が行われ市内には数基の山車がひきまわされていました。大鳥居をくぐった参道には出店が店を並べ、たくさんの人で込み合っています。
朱塗りの総門をくぐると正面に社殿です。朱塗りの社殿は慶長9年(1604)徳川家康が造営したものと言います。拝殿の奥には浅間造と呼ばれる2階建ての本殿がありました。
境内の右手には湧玉池があります。富士山の伏流水が湧き出したもので、かつての富士山信仰ではここで禊ぎをしてから山頂を目指したと言います。
日本神話に登場する神様。古事記では瓊々杵命(ににぎのみこと)の妻となります。富士山の神とされ各地の浅間神社で祀られています。子育ての神、子安神としても篤く信仰されています。
神社建築様式の一つ。社殿の上にさらに別の社殿が載った二階建ての建築様式で、神社建築としては特殊な形式である。富士山本宮浅間大社、静岡浅間神社、多摩川浅間神社、浅間神社 (横浜市西区)の4社のみとされている。
1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。
日本神話に登場する神様。天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫。天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)の子。天照大神の命で葦原の中つ国を統治するため、高天原から高千穂峰に天降ったとされる。木花開耶姫(このはなのさくやびめ)を妻とし、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)を生んだ。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1560~1600年、安土桃山時代の武将。豊臣秀吉に重用され、五奉行の一人として太閤検地などに活躍。秀吉の死後、遺子秀頼を擁ようして徳川家康と対立、関ヶ原の戦いに敗れ京で斬首された。
慶長5年(1600年)関ヶ原で石田三成らの西軍と徳川家康らの東軍とが天下を争った戦い。小早川秀秋の寝返りにより東軍が大勝した。石田三成らは処刑され豊臣秀頼は60万石の大名に転落した。これにより徳川氏の覇権が確立した。