叶花集会所9:45~石尊不動尊10:00~石尊山11:25/40~深高山12:15/50~496m付近13:20/25~456m付近13:40/45~叶花集会所14:35
山の会の仲間との山行は足利の石尊山です。石尊不動尊が祀られる信仰の山はまたアカヤシオの咲く山としても知られています。
登山口は叶花集会所の駐車場です。平日にもかかわらずの駐車場には10台ほどの車が止まっていました。
石尊宮とは大山信仰と修験道が融合した神仏習合の神です。大山の石尊宮は明治時代の神仏分離令により阿夫利神社に改組されました。しかし地方では神仏習合の歴史が温存されてきたのでしょう。
またこの地区には梵天祭りが受け継がれています。毎年8月、杉丸太の梵天を山頂へが継ぎあげる祭りで、担ぎ上げた梵天の弊串を抜き取り持ち帰ると家内安全、商売繁盛などの御利益があると言います。
不動尊の鳥居前からは杉林の中の暗い山道が始まります。道端には丁目石が建っています。ここは信仰の山、かつては女人禁制であったようで大きな女人禁制の石柱が建っていました。
ジグザグを繰り返す若葉色の稜線を登る道、わずかに登ると岩っぽい登りが始まりす。山頂から下ってきた中年のハイカーは地元の人、まだアカヤシオは残っていると話してくれました。
ミツバツツジの花を眺めながら登るとアカヤシオの花、ずでに登山道に散り始めた花が広がっていることはこの花も今週の末までなのでしょう。
大きな岩の上は釈迦岩展望台です。見上げる稜線の上には釈迦岩が見えていました。
山頂直下の岩場を登ると石尊神社の奥ノ院、神額には玉桙通神と書かれているのでしょう。かつてこの周辺には石塔などがあったようですが東日本大震災で崩壊したようです。
奥宮の裏手は草地が広がるお弁当広場です。石尊山の山頂は稜線を少し歩いたところです。三角点の傍には大きな山頂標識、ここは栃木百名山の頂です。
ここからは雑木林の中の稜線歩き、小さなアップダウンを繰り返すと湯殿山への分岐です。登山道が崩壊しているので通行止めになっていました。
さらにしばらく進むと深高山の山頂にたどり着きました。ここもまた展望が広がらないところ、梢の先には仙人ヶ岳の稜線が見え隠れしていました。
南側には大きな採石場が広がり砕石で土削られた山肌が見え隠れしていました。ここ足利にも開発の波が押し寄せているのでしょう。
深高山の山頂でお弁当を広げたのち、往路をたどり登山口に戻りました。
石尊山の山頂周辺には堀切のような形状が2か所、ネットなどで調べるとここには石尊山城があったのではないかと推測している記事がありました。近くの叶花には小俣城があったようで中世の足利には山城などが多く存在していたようです。しかし水が期待できない山上に山城を設けるのはかなり難しいものと思います。
帰りには近くの金山城を見ていくことにしました。ここは文明元年(1469年)新田一族であった岩松家純によって築かれた山城です。日本百名城、関東七名城にも選ばれた堅城で、土塁や曲輪が中心であった関東の山城と違い石垣を用いて築城されています。
ジグザグを切りながら金山城址線を登っていくと広い駐車場、道標に導かれながら尾根道を歩いていくと金山城の遊歩道です。ここから物見台、三ノ丸へと続く道には堀切や石垣などが続いています。
大手虎口は寄せ手を圧倒するかのように積み上げられた石垣、軍用用水地として掘られた日ノ池、月ノ池は今も水をたたえています。
虎口の先は本丸への石段です。実城とも呼ばれている本丸跡には新田神社と御嶽神社が祀られていました。
混沌とした戦国j時代、下克上で金山城を手中に収めた横瀬成繁は由良と名を変えます。そののち金山城は上杉謙信、武田信勝頼などの10回以上攻防の歴史を繰り返ししますが落城しなかった堅城でした。
その後、小田原北条氏の配下になりますが、豊臣秀吉の小田原攻めで金山城は開城。その後廃城となりました。
新田神社の参道にそびえる樹齢800年という大ケヤキは金山城の歴史の証人ともいえるでしょう。大きな枝に今年も新緑の葉が芽吹いていました。