少林寺 
秩父観音霊場15番の寺は少林寺です。秩父鉄道の踏切の近くで狭い道は入りにくいところです。石段を登ると白い本堂があります。扁額は五葉聖堂、天井にはたくさんの奉納札が貼っていました。明治時代、神仏分離令で廃寺となった母巣山蔵福寺、東町柳島にあった五葉山少林禅寺が合わせ札所を継承しました。その歴史が扁額の五葉の文字にも残っているようです。
境内には秩父事件の歴史が紹介されています。明治17年、吉田町の椋神社で農民3000人が蜂起、生糸市場の暴落による生活困窮と当時の自由民権運動の影響で大きな暴動になったと言います。ここ少林寺にはこの戦闘で殉職した警官が祀られていると言います。
少林寺のボタン少林寺の庭園には白やピンク、黄色いボタンが咲いていました。
立てば芍薬、座れば牡丹は美しい女性を形容する言葉です。境内は牡丹の匂いが漂っていました。
明治十七年十一月一日、吉田町の椋神社に白だすき、白鉢巻の農民たちが、刀、脇差、火縄銃、竹槍等を手に手に持ち約三千名が結集し蜂起した。
困民軍集団は、作戦目標、きびしい軍律五箇条を設け、吉田町から小鹿野町に入り高利貸しを襲いつつ、二日に大宮?(現秩父市)に入った。この時、困民軍は約一万人の集団になっていたといわれ、各地域で戦闘が展開されたが、軍隊の出兵によって鎮圧された。しかし困民軍の一部は活路を求め、七日には上州、信州へと侵入して、九日に信州野辺山の戦闘で完全に解体した。
山に囲まれた平和な里に、このような多数の農民が蜂起し「無政の郷」として天下の耳目を衝動させたエネルギーは、一体どこから生まれたものであろうか。
当時は耕地の狭さを養蚕で補い生活をたてていたが生糸相場の暴落や繭の不出来によって現金収入の途は断たれ、農民たちの中には、夜逃げする者、家屋敷をとられる者などもあった。このような中で、自由民権思想の影響を受けた困民軍集団が組織され、蜂起に至ったのである。
人々を驚かせたこの一大蜂起事件も、これまでは秩父暴動、暴徒、騒動と呼ばれてきたが近年徐々に「秩父事件」としての性格が掘り起こされ、この呼名が定着しつつある。
なお、ここ札所十五番少林寺には、この戦闘で殉職した密田鷹男・青木與市両警部補に対し、当時の山縣有朋内務大臣から贈られた碑文が建立されている。
昭和五十六年三月 秩父市
関連記録・コース六観音は六道輪廻の思想に基づき、六種の観音が六道に迷う衆生を救うという考えから生まれたもの。地獄道 - 聖観音、餓鬼道 - 千手観音、畜生道 - 馬頭観音、修羅道 - 十一面観音、人道 - 准胝観音、天道 - 如意輪観音とされる。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
源頼朝によって発願され、源実朝が西国の霊場を模範として制定したと伝えられてる33ヶ所の観音霊場。神奈川・埼玉・東京・群馬・栃木・茨城・千葉にかけてある札所を巡拝すると1,300キロメートルになると言う。