延喜式神名帳には武蔵国荏原郡 稗田神社(ひえだじんじゃ)として記載されている神社で、大田区蒲田の稗田神社、東六郷の六郷神社も論社となっています。
寛弘7年(1011年)武蔵国御田郷久保三田に遷座、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として崇敬を集めました。渡辺一党の祖に源頼光(みなもとのよりみつ)の家臣、渡辺綱がいます。今昔物語などに登場し大江山の鬼の棟梁・酒呑童子を退治、京都の一条戻橋上で源氏の名刀「髭切りの太刀」で鬼の腕を切り落とした逸話で知られています。
徳川家康の江戸入城では荏原郡上高輪村海岸が開拓され寛永5年(1628年)社殿が竣工し現在地へ遷座しました。
明治5年(1872)郷社に列し三田八幡神社へ改称、明治30年(1897年)三田を旧称であった御田に復し御田八幡神社に改称しました。
昭和20年(1945年)東京大空襲で社殿が焼失。昭和29年(1954)社殿が再建されました。
御田八幡神社では釜鳴神事が行われています。釜の響き、鳴り方で農作物の実りを占うものです。岡山県の吉備津神社の釜鳴神事が知られています。
日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。
また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。
日本神話に登場す神様、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天の岩屋に隠れたとき、祝詞を奏した神。天孫降臨に従った五伴緒神(いつとものおのかみ)の一神。中臣氏、藤原氏の祖神。
記紀によれば孝元天皇の子孫、日本最初の大臣です。神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の二百数十年間の天皇に仕えたと言います。蘇我、葛城、平群(へぐり)、巨勢(こせ)の4氏の祖とも言われています。
日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。
また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。
第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。
大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。
6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。
日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。
日本神話で高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られています。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に天の岩戸にこもり国中が暗闇になったという岩戸神話や孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国に降臨させた天孫降臨の神話が知られています。
仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。
三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。
この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。