田端八幡神社 


 寺社の種類:旧村社
 創建の時期:文治5年(1189年)
 本殿の形式:ー
 境内社:稲荷社、富士浅間社、三峰社
 所在地:東京都北区田端2丁目7ー2
 訪問日:2025年1月24日

 

東京都北区田端にある神社です。源頼朝が奥州征討の帰りに当地に立ち寄り、鶴岡八幡宮から勧請したのが起源である。

境内には、地元の富士講「田端冨士三峰講」が祀る富士塚がある。社殿は1945年(昭和20年)の空襲で焼失したが、戦後に再建された。しかし1990年(平成2年)放火テロにより再度焼失、1993年(平成5年)に再建された。

参道わきにはたくさんの神輿蔵があります。隔年で町神輿が出て子供神輿の連合渡御も行われるが、本社神輿が出御するのは6年に一度と言います。

田端八幡神社の案内板
参道脇に神輿蔵
石鳥居の先に石段
由緒書き
参道わきに富士塚か
参道わきに社と稲荷社
御手水場
拝殿
拝殿の内部
急な石段

《田端八幡神社》東京都北区教育委員会の案内板

この八幡神社は、田端村の鎮守として崇拝された神社で、品陀和気命(応神天皇)を祭神としています。神社の伝承によれば、文治5年(1189)源頼朝が奥州征伐を終えて凱旋するときに鶴岡八幡宮を勧請して創建されたものとされています。別当寺は東覚寺でした。

参道の中程、一の鳥居の手前には石橋が埋められています。これは昭和初期の改修工事によって暗渠となった谷田川に架かっていたもので、記念保存のためにここへ移されました。

社殿は何度も火災等に遭い、焼失と再建を繰り返しましたが、平成4年(1992)に氏子たちの協力のもとで再建され、翌年5月に遷座祭が行われて現在の形になりました。境内には、稲荷社のほかに田端富士三峯講が奉祀する富士浅間社と三峰社があり、富士浅間社では毎年2月20日に「富士講の初拝み」として祭事が行われています。

 

 その他のコース・山行記録


 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

八幡神に対して奉られた菩薩号。奈良時代に始る神仏習合から起った称号

 

TAG:八幡宮
 訪問者数 今月:16件
 Back