鳩森八幡神社 


 寺社の種類:旧村社
 創建の時期:貞観2年(860年)
 御祭神:応神天皇神功皇后
 相殿:ー
 本殿の形式:-
 境内社:浅間神社(富士塚の里宮)、神明社、甲賀稲荷社、将棋堂
 所在地:東京都渋谷区千駄ケ谷1丁目1ー24
 訪問日:2025年3月7日

 

東京都渋谷区千駄ヶ谷にある神社です。『鳩森八幡神社は千駄ヶ谷一帯の総鎮守として親しまれており、特に千駄ヶ谷の富士塚が有名です。富士塚は江戸時代に築造された人工の富士山で、都内最古のものとされています。また、将棋堂もあり、将棋会館が近くにあるため、将棋との縁が深い神社でもあります。境内には、甲賀稲荷社、冨士浅間神社、神明社の三つの末社があります。』(Copilot 2025/3)

東京都渋谷区・鳩森八幡神社の石鳥居
鳩森八幡神社の石鳥居
東京都渋谷区・鳩森八幡神社のイチョウご神木
境内のイチョウはご神木
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の甲賀稲荷鳥居
甲賀稲荷の鳥居
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の甲賀稲荷
甲賀稲荷の社
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の境内に神輿蔵
境内に神輿蔵
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士塚案内板
千駄ヶ谷富士塚の案内板
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士塚案内板
千駄ヶ谷富士塚の案内板
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士塚案内図
千駄ヶ谷富士塚の案内図
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の河津桜
境内に河津桜
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の富士塚石鳥居
富士塚の石鳥居
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士塚案内図
千駄ヶ谷富士塚の案内図
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の富士塚登山道に「参明藤開山」の御身抜
登山道に「参明藤開山」の御身抜
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の里宮の社
里宮の社
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の富士塚三合目に亀岩
三合目に亀岩
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の富士塚に溶岩のような岩山
溶岩のような岩山
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の富士塚に食行見禄の石窟
食行見禄の石窟
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の富士塚の山頂
富士塚の山頂
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の富士塚山頂に銀明水
山頂に銀明水
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の梅の花が咲く参道
梅の花が咲く参道
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の拝殿
拝殿
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の拝殿に奉納額
拝殿に奉納額
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の能楽殿
能楽殿
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の将棋堂
境内に将棋堂
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の将棋堂由来記
将棋堂の由来記
東京都渋谷区・鳩森八幡神社の将棋堂開扉写真
将棋堂開扉の写真

境内にある富士塚は江戸八富士の一つにも数えられています。山裾には里宮(浅間神社)があり、また七合目の洞窟には身禄像、山頂には奥宮が安置されるなど富士山を再現しています。登山口には「参明藤開山」の石碑があります。富士講の祖である角行が、富士山を開くという意味で明藤開山と唱えたのが始まりで、のちに身禄が参を付け参明藤開山としたとされています。石碑に刻まれたり御身拭いに書かれたと言います。

溶岩などの岩で積み上げられた富士塚の2合目には里宮、3合目には亀岩、8合目の岩窟には身禄の石像が祀られています。細い登山道にはロープが張られていますがなかなか歩き難い富士塚でした。

 

《新宿区指定有形民俗文化財・千駄ヶ谷の富士塚》東京都教育委員会

この富士塚は寛政元年(1789)の築造といわれ、円墳形に土を盛り上げ、黒砂(富士山の溶岩)は頂上近くのみ配されている。山腹には要所要所に丸石を配置しており、土の露出している部分には熊笹が植えられている。頂上には奥宮を安置し、山裾の向って左側に木造の里宮の建物がある。

頂上に至る登山道は正面に「く」の字形に設けられ、自然石を用いて階段としている。七合目には洞窟がつくられ、その中には身禄像が安置されている。塚の前面には池があるが、この池は塚築造のため土を採掘した跡を利用したもので、円墳状の盛り土、前方の池という形は江戸築造の富士塚の基本様式を示している。

この富士塚は大正十二年(1923)の関東大震災後に修復されているが、築造当時の旧態をよく留めており東京都内に現存するものではもっとも古く、江戸中期以降、江戸市中を中心に広く庶民の間で信仰されていた富士信仰の在り方を理解する上で貴重な資料である。

 

 その他のコース・山行記録


 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 神功皇后(じんぐうこうごう)氣長足姫尊・息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)

仲哀天皇の皇后、父は開化天皇の曾孫、母は新羅から但馬に来住したという天之日矛(あめのひぼこ)の玄孫たかぬかひめ。

三韓征伐の中心人物で仲哀天皇が熊襲を討つため九州に赴き筑紫の橿日宮で急死すると、妊娠中にもかかわらず武内宿禰とはかり新羅に遠征したとされています。

この遠征により百済と高句麗も日本に帰服ししました。皇后は大和に戻ってから応神天皇を皇太子に立てて約 70年間皇太子の摂政としてみずから政治をとったと言われています。

 

 継体天皇(けいたいてんのう)・男大迹尊(おおどのみこと)

第26代天皇(在位:507年2月4日~531年2月7日)武烈天皇没後嗣子がなく、大伴金村・物部麁鹿火(あらかび)らに越前から迎えられて河内で即位したと伝えられる。 このころ朝鮮半島における日本の勢力は衰え、筑紫では磐井(いわい)の乱が起こった。また仏教も渡来人によって伝えられ普及し始めた。陵墓は大阪府茨木市太田3丁目の三嶋藍野陵。

 

 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)・大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけのみこと)

第21代天皇(在位:456年11月13日~479年8月7日)允恭天皇(いんぎようてんのう)第五皇子。宋書に見える倭王武とされる。雄略天皇の登場により大王による専制支配が確立され、大王を中心とする中央集権体制が始まったとする見方がある。考古学的に実在がほぼ確定している最初の天皇とされる。陵墓は大阪府羽曳野市島泉8丁目の丹比高鷲原陵。

 

 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)足仲彦尊命・足仲津彦尊命(たらしなかつひこのみこと)

第14代天皇(在位:192年1月11日~200年2月6日)、日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)、皇后は神功皇后

熊襲を討つため神功皇后とともに筑紫に行幸したとき、まず新羅を討つべしという神の託宣にそむいたため神の怒りに触れて戦陣で没したとされています。陵墓は大阪府藤井寺市藤井寺4丁目の恵我長野西陵。

 

 武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)

記紀によれば孝元天皇の子孫、日本最初の大臣です。神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行、成務、仲哀、応神、仁徳の二百数十年間の天皇に仕えたと言います。蘇我、葛城、平群(へぐり)、巨勢(こせ)の4氏の祖とも言われています。

 

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