冨塚八幡宮 


 寺社の種類:神社、郷社
 創建の時期:延久4年(1072年)
 主祭神:誉田別命、富属彦命(とつぎひこのみこと)
 社殿の様式:流造
 所在地:神奈川県横浜市戸塚区戸塚町字六丁目3827番地
 訪問日:2014年1月2日

 

前九年の役平定にあたって源頼義義家が富属彦命の御神託により戦功をあげたことを感謝し、冨塚山の中腹に八幡神を勧請したのが創祀と伝えられる神社です。

また戸塚(富塚)一族はこの地に住みついていたことから、全国に散らばる戸塚姓、富塚姓の人々の守護神であると言います。

冨塚八幡宮の鳥居
冨塚八幡宮の由緒書
初詣客で賑わう境内
急な石段を登ります

境内はたくさんの初詣客で賑わっています。拝殿の脇には一番太鼓があり年の数だけたたくと御利益があるとか。

拝殿にはたくさんの人
神殿を守る狛犬
神殿を守る狛犬
冨塚八幡宮の扁額
神殿の脇に一番太古
天満宮と稲荷大明神
本殿
古い石碑や石像

本殿の裏手は薄暗い林で急坂を登ると小さな山頂にたどり着きます。結界が巡らされた一帯は冨塚と呼ばれ戸塚の地名のもとになったところと言います。

古い石碑や石像
古い石碑や石像
冨塚の石碑
境内の外れに稲荷社

 

関連記録・コース

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 流造(ながれづくり)

神社建築様式の一つ。屋根の前のほうが長く伸びて向拝をおおい、庇と母屋が同じ流れで葺いてあるのでこの名がある。

正面の柱が2本であれば一間社流造、柱が4本であれば三間社流造という。奈良時代末~平安時代に成立し広く各地に流布しました。

 

 前九年の役(ぜんくねんのえき)

平安末期の1051年から1062年の12年、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとうら)の反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築く契機となった。

 

 源頼義(みなもとよりよし)

平安時代中期の武将、河内源氏初代棟梁、源頼信の嫡男で河内源氏2代目棟梁。子の義家とともに前九年の役を鎮定、東国における源氏の勢力を強化。

 

 源義家(みなもとよしいえ)八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)

平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

 

 八幡大神(やはたのかみ・はちまんおかみ)誉田別命、品陀別命(ほんだわけのみこと)

日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。

また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。

 

 応神天皇(おうじんてんのう)譽田別尊(ほんだわけのみこと)八幡大神(やはたおおかみ)

第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。

大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。

6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。

 

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)神仏混淆(しんぶつこんこう)

日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。

 

 八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)

八幡神に対して奉られた菩薩号。奈良時代に始る神仏習合から起った称号

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

 源義家(みなもとよしいえ)八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)

平安時代後期の武将、八幡太郎義家として知られる。比叡山等の強訴の頻発に際しその鎮圧や白河天皇の行幸の護衛に活躍する。前九年の役で父を助けて安倍氏を討ち後に陸奥国守となった。清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こした。東国における源氏勢力の基盤をつくった。

 

 白河天皇(しらかわてんのう)

第72代の天皇、在位1072年12月8日~1086年11月26日。後三条天皇の第1皇子。譲位後も堀河、鳥羽、崇徳天皇の3代にわたって43年間院政を行った。深く仏教に帰依し社寺参詣もしきりに行った。陵墓は京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町の成菩提院陵。

 

 前九年の役(ぜんくねんのえき)

平安末期の1051年から1062年の12年、陸奥の豪族安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとうら)の反乱を源頼義・義家らが平定した戦い。後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築く契機となった。

 

 後三年の役(ごさんねんのえき)

平安後期の1083年から1087年、奥羽の豪族清原氏が起こした戦乱。清原氏内部の相続争いが発端であったが、陸奥守として下向した源義家が清原清衡(藤原清衡)とともに、清原家衡・武衡を金沢柵(かねざわのさく)に下して平定した。これにより清衡は平泉における藤原三代の基をつくり、義家は東国に源氏の勢力基盤を築いた。

 

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