千束八幡神社(洗足池八幡宮) 
東京都大田区南千束にある神社です。平安時代、千束郷の鎮守として宇佐八幡宮が勧請されました。
永保3年(1083年)、奥羽平定に向かう途中の八幡太郎義家(源義家)は、洗足池で禊ぎをして戦勝を祈願したと言います。
治承4年(1180年)、石山合戦に破れた源頼朝は、安房から鎌倉へ攻め上る途中、この地に陣を構えて諸将の参陣を待ったと伝えられています。このことから旗揚げ八幡とも呼ばれています。
宇治川先陣物語に登場する池月発祥伝説の由来ともなった社で、境内には大きな池月の絵馬がありました。
《御由緒》 現地の案内から
御祭神 品陀和気之命(應神天皇)
當社は千束八幡神社と稱し、平安前期の貞觀二年豊前國宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ、今日に至る。
遠く千百余年の昔より、この地の氏神として尊崇せられ、普く神徳を授けてこらる。
承平五年、平将門の乱が起る。朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり。乱後忠方は池畔に館を構え、八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき、館が池の上手に当るに依りて池上氏を呼稱。この九代目の子孫が日蓮を身延から招請す、之池上康光なり。
又八幡太郎義家奥州征討の砌、この池にて禊を修し、社前に額づき戦勝祈願をなし出陣せりと伝えられる。源頼朝も亦鎌倉に登る途次、この地を過ぐるに八幡宮なるを知り、大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉、近郷より将兵集まりて、鎌倉に入る事を得、旗挙げ八幡の稱あり。名馬池月を得たるも此処に宿舎の折なりとの傳承あり。
尚境内に武蔵国随一と云われし大松ありしが、大正十三年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし。
古歌に「日が暮れて足もと暗き帰るさに霊に映れる千束の松」と詠まれて居り、老松の偉容が想像されよう。
斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にして亦名社なり
宮司 恵良彰紀識
《池月発祥伝説の由来》 現地の案内から
池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承四年八月(一一八〇)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤、上総介広常、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月(こうげつ)池水に映るを賞でつる折ふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向って飛来り嘶く声、天地をふるはすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞しく青き毛並に白き斑点を浮べ恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。
朝朝先に磨墨(するすみ)を得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。士卒之を伝へて征旗を高く揚げ歓声やまさりしとか。
当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。寿永三年春(一一八四)朝朝木曽義仲を京師に攻む。義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景率は磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先伸を争った。史書に云ふ宇治川先陣争いである。
池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へているる。
この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってるたが、今はない。
遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
尚磨墨をせし磨墨塚は南馬込に現存する。
氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年九月の祭日に奉納されてるる。
池月の 蹄の音か 揆の冴え
平成四年三月 千束八幡神社、洗足風致協会
関連記録・コース日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。
また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。
日本で信仰される神で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から弓矢八幡として崇敬を集めました。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされます。
また早くから神仏習合がなり、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)として神宮寺が祀られました。
第15代天皇(在位:270年1月1日~310年2月15日 )仲哀天皇の第4皇子、母は神功皇后。神功皇后が新羅へ渡ったときに身篭っていたことから胎中天皇などと呼ばれています。記紀には渡来人を用いて国家を発展させ、中世以降は軍神八幡神としても信奉されでいます。
大和朝廷の勢力が飛躍的に発展した時期で一説に中国の歴史書に記述のある倭の五王の一人、讃とする説があります。陵墓は大阪府羽曳野市誉田6丁目の恵我藻伏崗陵。
6世紀前半に在位したとされる第26代継体天皇以前の天皇については、第21代雄略天皇を別として実在の可能性が薄いという見解があります。
日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。すでに奈良時代から寺院に神が祀られたり、神社に神宮寺が建てられたりした。平安時代頃からは本格的な本地垂迹(ほんじすいじやく)説が流行し、中世になって両部神道などが成立した。