梅ヶ瀬渓谷~房総の紅葉の名所~ 
梅ヶ瀬茶屋駐車場9:28~湿原10:40~日高邸跡11:13/45~梅ヶ瀬茶屋駐車場13:03
房総の紅葉の名所、梅ヶ瀬渓谷に遅い紅葉を訪ねるハイキングです。猛暑が続いた夏場から一転、今年の秋は短いようで、房総の秋はその盛りを過ぎているようです。
たどり着いた梅ヶ瀬茶屋の駐車場、店番をしていたお婆さんの話ではモミジの盛りは1週間前とか、色付き始めるとすぐに散り始めてしまったと言います。
駐車場から僅かに歩くと大福山への分岐、さらにしばらく歩くと大きな駐車場です。それでも紅葉を求め5、6台の車が停まっていました。
ここには梅ヶ瀬詩人と呼ばれる日高誠実の案内板があります。
現地には「梅ヶ瀬詩人 日高誠寛梅ヶ瀬を詠む」と題して案内板が建っていました。
『日高誠寛十首序文
客歳、予南総に遊ぶ。養老川を遡り一渓流に従い数洞門を過ぐ。渓途深く、趣愈奇なること仙窟に入るが如し。因って大久保・朝生原・折津・石塚・菅野・柳川・怒田・大谷・川谷・小市部、十村之衆に説きて、梅四百余株を栽え、命けて梅瀬と日ふ。今茲に丙戌(明治十九年・一八八六)三月、余再び至りて、梅及柑橙柘榴一千六百余株を栽え、隣邑の人来りて、花木亦数百株贈られ、俄然観を改む。衆父予の為、力を致し荒蕪を開き通路築き土を築き、水をとどめめ、巌を削り、宅成る。石神邑戸面村の人亦来りて工事を助く。予因りて巌上に庵を結び、池中に魚を放す 洞門をさく修し以て便ち往来来りて吟嘯し自ら楽しみ十首賦す。』
この渓谷が梅ヶ瀬と呼ばれる所以や日高邸について書かれています。しかし日高邸での生活はなかなか大変であったのでしょう。
程なく道は林道から浅い沢床へと下って行きます。この数日は雨の日もなかったと思っていましたが少し水嵩があったようで最初の渡渉では靴が濡れてしまいました。
さらにその先には川岸の残された細い堰堤、踏み跡は右手を巻くように続いています。中にはここを越えたのか幾つもの踏み跡が続いていました。
左手の岩壁には細い岩穴があります。かつてはこの岩穴を通ていたのでしょうが通行禁止の立て札がありました。
その先は広く開けた草地、ここが日高邸までの中間点です。目の前はの岩壁の上にはまだ真っ赤なモミジが青空に生えていました。
浅い沢の渡渉を繰り返しながら細くなり始めた沢をたどって行きます。濡れた岩壁にはシダが生い茂っています。
見上げる岩壁の散り残ったモミジを眺めながら沢の登って行くと大福山への分岐、ここから日高邸までは200m、大福山までは1kmほどと言います。
細くなった沢は流れも浅くなってきました。小さく登ると日高邸跡です。期待していたカエデの大木はすでに葉を落とし、広場は枯葉に覆われています。広場のベンチに腰を下ろし軽いお昼にしました。
日高邸からは往路をたどり梅ノ木茶屋の駐車場へと戻ることにします。途中で出会ったのは埼玉の山岳会の20人ほどのパーティ、電車が遅れたため1時間ほど遅くなったと言っていました。小湊鉄道の養老渓谷駅は1日10本、車でなければなかなか大変なところなのでしょう。
途中にはカントウカンアオイがありました。氷河時代には氷期と間氷期が繰り返し訪れ間氷期では現在より海面が6mから9m程高く房総半島は関東と浅い海で隔たれた準島状であったと言います。また氷期には海面が100mから200m程低く房総と三浦が陸続きであったと言います。
蟻などにより花粉が運ばれるカントウカンアオイは生息分布が狭い植物です。房総から三浦、関東南部に分布していることから、かつて房総と三浦は陸続きであった時代があることが推測できると言います。カントウカンアオイはその生き証人とされているようです。
帰りには何時も通り保田の番屋に立ち寄り海鮮の味を堪能してきました。アジの味比べ、まぐろのかぶと焼き、結構食べ応えもありましたが、梅ヶ瀬から保田への房総半島縦断は時間がかかるものでした。