小山田緑地駐車場9:40~奈良ばい谷戸~浅間神社10:15~あした牧場~六地蔵~小野路宿里山交流館10:50/11:30~万松寺11:45/55~万松寺谷戸~乗越八幡跡12:30~こうせん塚~明神谷戸~小野路城跡13:05~小町井戸13:15~小山田緑地駐車場13:40
小野路は町田の郊外に広がる山里です。江戸時代には大山街道の宿場町として栄え、小野路宿通りは当時の雰囲気を今に残しています。
平安時代、小野篁の七代の孫、小野孝泰が武蔵の国司として赴任、この地に小野篁の霊を祀った小野神社を創建したとされます。小野篁は平安時代前期の人で和漢に優れた学者です。昼間は帝に仕えていながら夜になると閻魔大王庁に出仕したという伝説があります。京都の六道珍皇寺にはこの抜け穴と言う井戸があります。
また、小野路には平安末期の山城小野路城があります。承安年間、小山田氏により小山田城の支城として築かれたものです。後に扇谷・山内軍の拠点になりました。長尾景春の乱では長尾勢によって攻められ落城しました。本丸跡には神社が建てられて北西部に土塁の跡を確認することができると言います。
歩きはじめは小山田緑地公園の駐車場です。車の流れが多い道路を渡ると奈良ばい谷戸です。谷戸は丘陵地に浸食された谷状の地形で、湧水が容易に得られることから古くから稲作などが行われていたところ言います。
冬枯れの段々畑が続く道を緩やかに登って行きます。畑の中には「わらぼっち」、刈り取った稲わらを積み重ねたもので乾燥後は家畜のえさに使われると言います。
炭焼き小屋を越えると浅間神社の分岐です。ロウバイが咲く道を緩やかに登って行くと浅間神社の社が祀られていました。 境内からは丹沢の稜線の先に雪を被った富士山がそびえていました。
浅間神社からは耕作地の中を下って行くことにします。近くには幾つかの牧場があるようですが冬のためなのか放牧などは行われていないようです。
道端に祀られた六地蔵、ここのお地蔵さんは七体です。1体は廃寺から運ばれたものと言います。
やがて道は小野神社の鳥居の前に、その先は小野路宿里山交流館です。
ここのランチは11時から、名物はうどんとコロッケと言います。地元の粉を使ったとされる細いうどんは蕎麦のようです。大根の天婦羅もなかなかの美味でした。
交流館からは万松寺に向かいます。ここは臨済宗建長寺派の古刹です。
お寺の先は住職の住宅か、90歳と言うお婆さんと立ち話です。「ここは封建社会の名残が残るところで、子供が出来な女性はかなり苦労したか、かつての万松寺谷戸では炭焼きをしていた、コメの栽培が盛んだったが減反などでほとんどなくなった」など小野路の昔話を聞かせていただきました。
万松寺の先は万松寺谷戸です。冷たそうな水が流れるあぜ道を登て行きます。彼方此方にマムシ注意の看板が建っています。尾根へと向かう藪っぽい急坂を登ると小野路城の下にたどり着きました。
ここからは明神谷戸に向かうことにします。緩やかな道をしばらく進むと乗越八幡跡、小さな峠には道祖神が祀られています。
ここを右に折れるとその先にこうせん塚があります。スダジイの根元にあり小さな石祠、現地の案内板には麦こがし(こうせん)にむせて死んだ老婆を祀ったもの、また小野路城の関門があり通せん場と呼ばれたことから関の神・咳の神に転じたものなど諸説あるようです。
この周辺は落ち葉も厚く、道標もないあまり人が歩いていないところです。細い枝道も多く付けられているようでした。
たどり着いた五反田谷戸にはため池があります。豊かな水がこの谷戸を潤していたのでしょう。
ここからは雑木林の中の登りが始まります。暗い林の中の道は小野路城の本丸跡にたどり着きました。小さな神社は八雲神社、素戔男尊命を祀る神社です。広く開けた一帯は本丸とそれを取り巻く土塁、その下には曲輪跡も残っているようです。
本丸跡を回り込むように進むと小野路城の水源として使われた小町の井です。現地の案内板には病にかかった小野小町がこの水で目を洗ったところ全快したと書かれていました。小野小町は平安時代の女流歌人で楊貴妃、クレオパトラとともに世界三大美人の一人に数えられますが、その生誕や晩年には多くの伝承が残されています。小野一族である小野篁の孫と伝えれれていますが諸説あるようです。
小町井戸からは緩やかな山道を下って行きます。しばらく下ると程なく奈良ばい谷戸です。車を停めた小田緑地公園は目の前でした。