秋川丘陵(加住丘陵)~秋川沿いに残る歴史の跡~ 


標高
網代城山331m、網代弁天山292m、雹留山264m
山域
奥多摩
登山日
2021年11月6日(土)、晴れ、12℃
歩程
行動時間 6:00、歩行時間 5:05
歩行距離
6.2km
標高差
140m
累積標高差
+470m、-500m
登山口
武蔵五日市駅mapon
交通機関
 往路・武蔵五日市駅、 復路・秋川駅
登山コース
武蔵五日市駅~高尾神社~網代城山~網代弁天山~貴志嶋神社~雹留山~根小屋城跡(二条城跡)~秋川駅
コースmap
秋川丘陵(GoogleEarthで作成)

 

 コースタイム


武蔵五日市駅10:00~高尾神社10:25~252mベンチ10:40/45~網代城山11:35~網代弁天山11:55/12:30~貴志嶋神社12:45~雹留山13:50~根小屋城跡14:40/45~ファミマあきるのインター店15:40/50~秋川駅16:00

 

 武蔵五日市駅~高尾神社~網代城山~網代弁天山


秋川に沿って続く丘陵は秋川丘陵と呼ばれその稜線上には雹留山や網代弁天山などの低いこぶを結ぶ秋川ハイキングコースがあります。ミツバツツジの花で知られる今熊山を訪ねたとき、緩やかに続く稜線を眺めながら何時か歩いてみたいと思っていたところです。

武蔵五日市駅前から五日市街道を戻ると旧五日市街道の交差点です。ここを右に曲がり舗装道路を登って行くと高尾神社があります。近くにある高尾山は真言宗の薬王院のお寺、この神社は軻遇突智(かぐつち)を祀る神社です。

武蔵五日市駅
旧五日市街道の交差点
高尾橋から見下ろす秋川
高尾神社の石柱

軻遇突智(かぐつち)は日本書紀に登場する火の神で、伊弉諾命(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子供です。伊弉冉尊は軻遇突智を産んだことにより亡くなります。これに怒った伊弉諾命が軻遇突智を斬った時に雷神や山神とともに高おかみ神が出生したと言います。

急な石の階段を登って行くと杉林の中に古びた社が建っていました。境内には軍荼利明王社と御岳神社が祀られていました。軍荼利明王が祀られていると言うことは神仏混合の歴史を持つ神社であったのでしょう。

登山道は右手の杉木立の中を登って行きます。しばらくすると展望が開けたベンチ、五日市の街並みの上には大岳山や日の出山など奥多摩の山々が青い稜線となって広がっていました。

急な石段の上に高尾神社
奥の院へと続く杉林の道
展望のベンチからは五日市の街並み
道標に導かれながら尾根道を

道標に導かれながら尾根道を進むと高尾神社の奥の院です。祠の脇には佐渡谷大先達、安川大先達と刻まれた石碑があります。高尾神社の境内に祀られた軍荼利明王は密教の神と言うことから山岳信仰などの先達の碑なのでしょうか。何れ大きな石を持ち上げるのは大変であったのでしょう。

ここからは固定ロープが張られた急坂です。鞍部から木の階段を登り返すと網代城山へと続く尾根にたどり着きました。

高尾神社の奥の院
固定ロープが張られた急坂を下り
固定ロープの急坂を登り返します
木の階段が続く急坂

近くではエンジンの音を響かせながら伐採作業が行われています。作業中の人の話によると山頂などからの展望が良くないことから伐採を行っているとか、近くの山では麻生山などでも伐採を行ったと話していました。

たどり着いた網代城跡は木立に覆われた広場です。現地の案内板によるとここは15世紀ごろ南一揆と言う地元の地侍による武装集団が拠点としたところとか、16世紀の中頃に北条氏が滝山城を築城するようになると南一揆は解体され滝山城の支城になったと紹介されていました。

途中では伐採作業が行われています
網代城山の山頂標識
木立に囲われた広場は網代城跡
網代城の案内板

山頂一帯が本丸、それから続く尾根道にはたて堀や曲輪などがあったとされています。木立の中に曲輪の跡が残っているようでした。

雑木林の道を下って行きます
伐採作業の背負子が置かれています
緩やかに続く雑木林の道
道標に導かれ網代弁天山へ
山頂周辺は岩っぽいところ
山頂からは秋川周辺の展望

雑木林の尾根を緩やかに下って行くと道標、網代弁天山へは右手前方向に緩やかに登って行くことになります。岩っぽい山頂は展望が開け目の前には秋川、遠く所沢のドームも見えていますが都心の街並みは霞んでいました。

 

 網代弁天山~貴志嶋神社~雹留山~根小屋城跡(二条城跡)~秋川駅


網代弁天山はミツバツツジの咲くところで公園として家族連れなどが訪れるところです。かつては公園から山頂までリフトがあったと言います。

思いのほか岩っぽい下り
弁天洞穴
暗い洞窟に石仏
石造り大黒天像の案内板

山頂からは岩っぽい坂道を下って行くと古い石仏が祀られた弁天洞窟です。現地の案内板によると市の文化財となっている石造り大黒天像が祀られていたと言います。

貴志嶋神社は市杵嶋姫命を祀る神社、豊臣秀吉による八王子城攻めの際、この神社の鐘が鳴らされた伝えられています。かつては茅葺きであったようですが新しい社殿は瓦で覆われていました。

貴志嶋神社の社
暗い杉林を下って行きます
貴志嶋神社の案内板
工事中の夕日橋を渡り

暗い杉林しを下って行くと登山道は引谷ヶ谷戸遺跡近くにたどり着きます。この付近は判り難いところで、どこに遺跡があるのか判りませんでした。

夕日橋を渡り工事中の舗装道路をしばらく歩くと網代トンネル近くの交差点です。左手は武蔵増戸駅に行く道、我々は網代トンネル脇の舗装道路を登って行くことにしました。

舗装道路はゴルフ場の脇を登って行きます。やがて舗装道路を離れ落ち葉に覆われた山道を登って行くことになります。車止めがありますがバイクなどの轍が残っていました。

網代トンネルの交差点
ゴルフ場わきの道を登って行きます
落ち葉を踏みしめながら林道を登り
雹留山の入り口

道端に雹留山の案内板、小さく登ると雹留山最高点の山頂標識と赤い鳥居の石祠があります。目の前はゴルフ場のグリーン、小さな案内版がなければたどり着けない山頂でした。

雹留山の山頂標識
赤い鳥居に古い石祠
落ち葉が積もる林道
戸吹へと続く笹竹がうるさい道

落ち葉の林道を緩やかに下って行きます。やがて山道をたどりようになった道は戸吹へと下って行きます。途中、道標に導かれ左手の尾根道を登って行くと根小屋城跡です。二条城跡、戸吹城とも呼ばれているようで、北条氏が武田信玄の侵攻に備え秋川沿いに構築した滝山城の支城のひとつであったと考えられています。

道標に導かれ二条城へ
笹に尾根道をたどり
根小屋城跡に朽ちかけた祠
ここは切り堀の跡か

小さな祠の先に堀切などがあるようですが土砂崩落のためかその先は通行止めになっていました。

登山道は竹藪の中を下り戸吹に下ってしまいました。上戸吹から秋川駅行きのバスも1時間に1本、かなり巻き道を強いられ秋留橋にたどり着きました。

緑の竹藪を下って行きます
秋川丘陵コースの案内板
秋川を渡る秋留橋
秋川駅南口

ここからは休日のためか車の流れが多い国道をたどり秋川駅に戻りました。

ネット上では網代・弁天山コースとして小峰ビジターセンターから網代城山、網代弁天山を経て武蔵増戸駅へと続く山行の記録が多いようです。またこのコースはかつて東京都環境局が設定した「かたらいの路」の一部です。しかし現在は日野市などで一部のコースが整備されているだけのようで秋川丘陵のほか高山不動や滝山周辺が歩かれているようです。

 

 コース GPSmap


 クリックするとGPSLogをダウンロードします。

 

 その他のコース・山行記録


 武田信玄(たけだしんげん)

1521~1573年、戦国時代の武将。名は晴信。父、信虎を追放して家督を継ぎ信濃に進出する。越後の上杉謙信と川中島で激戦を展開した。1572年、西上の途次三方ヶ原(みかたがはら)で徳川家康を破ったが翌年三河の陣中で病没。軍略家としてすぐれ信玄家法を制定、鉱山開発・治水にも業績をあげた。

 

 上杉謙信(うえすぎけんしん)長尾景虎(ながおかげとら)

1530~1578年、戦国時代の武将。越後守護代長尾為景の子。景虎、政虎、輝虎と改名する。越後春日山城にあって北陸地方一帯を領有、小田原北条氏、甲斐武田氏と対抗した。特に武田信玄との川中島の戦いは有名。

 

 徳川家康(とくがわいえやす)東照大権現(とうしょうだいごんげん)

1543~1616年、江戸幕府初代将軍。松平広忠の長男。織田信長と結んで駿河を、豊臣秀吉と和して関東を支配。豊臣秀吉の死後石田三成を関ヶ原の戦いに破り、慶長8年(1603年)征夷大将軍となって江戸に幕府を開いた。武家諸法度などを定めて幕政の基礎を築いた。

 

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