唐木田駅9:55~中坂公園~一本杉公園11:30/12:10~妙櫻寺~古道五差路~防人見返りの峠13:40/14:00~もみじ広場~はるひ野駅14:30
山仲間との軽い山行は多摩丘陵のよこやまの道です。多摩丘陵に弓のように続く尾根は万葉の時代から多摩の横山、眉引き山とも呼ばれているところです。
古代より西国と東国を結ぶ交通の要衝として、鎌倉古道や奥州古道が南北に交差し古い歴史の跡が各所に残されています。また、新田義貞による鎌倉幕府の運命を決めた分倍河原の古戦場もこの近くにあります。
集合は唐木田駅、駅前を通る県道はかつての奥州古道と言います。小田急の車両基地を回り込むように進むとよこやまの道の案内板がありました。
遊歩道のように整備された道は真っ赤に色付いた紅葉の中、落ち葉を踏みしめながら歩くハイキングコースが続いています。
小山田緑地への道を右に分け階段を下ると小さな園地、道端には奥州廃道の道標が建っています。案内によるとこの道は平安時代末期から都人や官僚がたどった道です。源頼義や義家の奥州追討伝説のある神社もこの道筋にあると言います。
ゴルフ場の脇をたどる道は勝負塚にたどり着きます。ここは古戦場伝説が残るところ。太平記によると後醍醐天皇の綸旨を受けて、討幕の挙兵をした新田義貞は小手指原の戦い、久米川の戦いで鎌倉幕府軍を破り、分倍河原で北条軍と激突しました。新田軍は苦戦を強いられましたが三浦義勝をはじめとする相模国の豪族の援軍を得、分倍河原、関戸の合戦に勝利しました。その後、新田軍は鐘掛け松の地で軍議を開き大軍に膨れ上がった軍勢を三手に分け侵攻をしました。そのうち右翼がこの地を進んだとされています。昭和30年にこの付近で頭に刀傷を負った鎌倉時代の人骨が発見されたことから、付近一帯が古戦場であったと推定されています。
展望が開けると青空の下に丹沢の稜線、蛭ヶ岳の先には真っ白な富士山の頂がそびえていました。
道端には奥州古道(中尾道)の道標があります。案内板によると都と東国を結んだ奥州古道が多摩丘陵を越えるルートは西から常盤道、長坂道(奥州廃道)、中尾道がありました。足柄や箱根からこの道を通り、落合の白山神社(現在の多摩センター)、府中を目指す旅人が通ったところと言います。
たどり着いた一本杉公園は野球場のある公園です。公園のはずれには市の天然記念物にしてされたスダジイの大木があります。樹齢は400年、高さ16mの大木で大きく枝を張っていました。近くには東京都水道局の南配水場、赤と白に塗られた給水塔がそびえています。
公園には水遊びのできる小川が流れています。すでに紅葉は終わりを迎えているようで枯れた葉が目立ちます。水道水を利用していると言うことで小川の水は夏の時期のみ流れているようです。
かつてこの辺りには大きなスギがあったと言われています。一本杉にまつわる話も語り継がれ、美しい女性に化けた狐に騙されたり、天狗が悪さや難問を出し旅人を困らせた言う話が残っているようです。
公園の中には鎌倉道が通っています。多摩川と小野路の宿を結ぶ中世の鎌倉街道の一つで関戸にあった関所を避けた裏街道と言います。江戸時代には日野往還や小野路道と呼ばれ、新選組の隊士となる若き日の土方歳三や沖田総司が小野路での出稽古に通った道と言います。
公園には加藤家や有山家の住宅があります。近くの豪農の住宅を移転したものなのでしょうが平日とあって展示はされていないようです。
よこやまの道は妙櫻寺で道を右に折れシラカシの大木へ向かいます。紅葉の雑木林の中にシラカシの大木があるのでしょうが見付けることはできませんでした。
よこやまの道を超える鎌倉古道は、鎌倉街道上ノ道、鎌倉裏街道、軍事戦略鎌倉街道、鎌倉街道早ノ道があります。現在の鎌倉街道は多摩市の乞田の五差路から町田の野津田の丘へと続く4.5kmの自然の谷で、鎌倉幕府成立のころはまだできていませんでした。その後、源頼朝は奥州藤原氏征伐、那須野の狩りなどで府中を訪れています。現在の鎌倉街道はそのころできたものと考えられ、新田義貞の鎌倉攻め、観応の擾乱で足利尊氏や上杉信玄の小田原攻めの帰りにはこの谷を大軍が通過していったと言います。
古道五差路は野津田や金井、本町田へと続く古道が集まるところです。堀切をもつ関所跡のような場所もあったと言います。
緩やかに登ったピークは防人見返りの峠です。丹沢や奥多摩、秩父の山々のパノラマを見ることができるところです。三角形の頂は滝子山、その奥には雪を画ぶった南アルプスの頂も見えていました。東国から九州へ防人として出征する兵士もこの展望を眺めていたのでしょう。
万葉集には「赤駒を野山に放し捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遺らむ」と防人の妻の歌があります。よこやまの道はこの歌から名付けられたとされています。
黒川散策路への道を右に分けると諏訪ヶ岳です。標高は僅かに146m、山頂には三角点がありました。
さくらの広場の先からはるひ野駅に下りました。唐木田駅からはるひ野駅まではおよそ9km、鎌倉街道や奥州古道などが交差した尾根歩きでした。古道のいわれを紹介する道標の陰に見え隠れする歴史の流れはなかなか奥深いもののようでした。
第96代天皇(在位:1318年3月29日~1339年8月15日)後宇多天皇の皇子。大覚寺統。親政を企てて正中の変、元弘の変に敗れ、隠岐に流された。1333年脱出し新田義貞、足利尊氏らの支援で鎌倉幕府を滅ぼして建武新政権を樹立。
のち公武の不和から親政は失敗し尊氏らも離反、36年吉野に移り南朝を立てた。陵墓は奈良県吉野郡吉野町吉野山の塔尾陵。
1301~1338年、鎌倉末期・南北朝時代の武将。元弘3年(1333年)鎌倉幕府を滅ぼし建武政権から重用された。のち足利尊氏と対立、兵庫で楠木正成(くすのきまさしげ)とともに九州から東上する尊氏と戦ったが敗れ、恒良・尊良両親王を奉じて越前金崎城によったが落城。藤島の戦いで討ち死にした。
第91代天皇(在位:1274年1月26日~1287年10月21日)亀山天皇の第2皇子。大覚寺統。1287年伏見天皇に譲位したが、その後続けて持明院統の後伏見天皇が即位したため、幕府に働きかけて後二条天皇を即位させて院政を行った。陵墓は京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町の蓮華峯寺陵。
1301~1338年、鎌倉末期・南北朝時代の武将。元弘3年(1333年)鎌倉幕府を滅ぼし建武政権から重用された。のち足利尊氏と対立、兵庫で楠木正成(くすのきまさしげ)とともに九州から東上する尊氏と戦ったが敗れ、恒良・尊良両親王を奉じて越前金崎城によったが落城。藤島の戦いで討ち死にした。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
1305~1358年、室町幕府の初代将軍(在職1338~1358)元弘の乱で建武の中興のきっかけをつくる働きをした。のち後醍醐天皇にそむき1336年光明天皇を擁立し室町幕府を開いて南朝と対立した。夢窓疎石に帰依し天竜寺などを建立。
1294~1336年、南北朝時代の武将。河内国の土豪。1331年、後醍醐天皇に呼応して河内赤坂城に挙兵、建武政権樹立に貢献し、河内和泉の守護となった。1336年足利尊氏を兵庫湊川に迎え討つが敗れ、弟正季と刺しちがえて死んだ。