鎌倉駅9:40~ローソン鎌倉由比ヶ浜店9:55/10:05~由比ヶ浜10:15~大太刀稲荷神社10:30~稲村ケ崎公園10:50/11:30~小動神社12:25/35、小動山浄泉寺12:35/40~片瀬江ノ島駅12:55
前回の関東ふれあいの道、荒磯・潮騒のみちに続き鎌倉の海岸線をたどる稲村ケ崎・磯づたいのみちを歩いてみることにしました。
ここは鎌倉幕府が終焉を迎える鎌倉攻めにおいて新田義貞の稲村ケ崎の渡渉伝説が生まれたところです。七里ガ浜に浮かぶ江の島と富士山の眺めは湘南のビューポイントとしてもお馴染みのところです。
観光客で賑わう鎌倉駅からは由比ヶ浜に向かいます。観光客の人込みは小町通りや檀蔓へと向かうようでそれほど人通りは多くありません。
南海トラフ巨大地震が迫っていると言われるなか、鎌倉では過去の地震で10mの津波が押し寄せた記録が残っています。道端には津波を想定し現在位置の海抜を示す案内板が彼方此方にありました。
道の途中には畠山重保の宝篋印塔があります。この付近は海岸に押し寄せる砂が積もったところのようで少し高くなっています。
由比ヶ浜が目の前に開ける滑川の交差点にはさくら貝の歌の歌碑と魚籃観音の石碑が祀られています。
既に海水浴シーズンも終えた砂浜には散策を楽しむ人のほかランニングの若者が通りすぎて行きます。ウェットスーツを着込み打ち寄せる波に乗るサーファーが点のようになって見えていました。
由比ヶ浜に沿って走る国道134号線は何時も車の数が多いところです。その間をサーフボードを自転車に付けた若者が走って行きます。近くに自宅があるのでしょうが湘南でなければ見られないもののようです。
関東ふれあいの道は国道145号線をたどり稲村ケ崎へと向かいます。
新田義貞の鎌倉攻めの時、鎌倉は名越、朝比奈、巨福呂坂、亀ヶ谷坂、化粧坂、大仏坂、極楽寺坂の七口により固められていたと言います。現在の稲村ケ崎は切通により車が走ることが出来る道となっていますが、往時は大軍が波が打ち寄せる海岸線をたどること難しかったようです。化粧坂、極楽寺坂の攻防が激戦となる中、新田義貞は稲村ケ崎を渡渉し鎌倉に突入しました。鎌倉は火の海となり東勝寺で北条一族は自害したと伝えられています。
展望台に上ると目の前に江の島や雪を被った富士山、波が砕ける稲村ケ崎の岩磯はとても人が通れるそうなところではありません。公園には新田義貞が剱を海中に投じたと伝える石碑が建っていました。
ここからは七里ヶ浜に沿った道を江の島へ。たくさんを観光客を乗せた江ノ電の電車が通りすぎる鎌倉高校駅付近では自撮り棒を持った観光客が電車をバックに写真を撮っていました。
腰越駅への道を右に分けると小動岬です。腰越は壇ノ浦で平氏を討ち果たした源義経が急速に悪化した頼朝に会うため後世に名高い腰越状を書いた場所とか、日蓮上人が処刑されそうになった滝口の刑場も腰越にあったと言います。
小動神社は海に突き出した小山の上に祀られた神社です。境内には海神社や六天王社が祀られています。現地の案内板には境内には八王子山遠見番所があり幕末の海防を担っていたと言います。
稲村ケ崎・磯づたいのみちの終点は江の島です。江の島弁天はコースの対象となっていないようです。小田急の片瀬江ノ島駅から自宅に戻りました。