坂尻バス停9:15~リッチランド9:45~半原越え10:30/40~591m峰10:50/11:10~革籠石山11:30/35~仏果山12:25/55~半原神社14:15~半原バス停14:25
神奈川の関東ふれあいのみちは17コース、残すは12丹沢山塊東辺のみちと、17北条武田合戦のみちになります。
今回は丹沢山塊東辺のみちを歩いてみることにしました。このコースは相州アルプスとも呼ばれる仏果山の稜線をたどるところで、低いながらも明るい稜線歩きが楽しめるところです。
たどり着いた坂尻のバス停からは半原越えへ続く舗装道路を歩き始めます。
登山口の清川村は江戸時代から養蚕が盛んだったところで半原越えを挟んだ愛川村ではこれを原料とした糸繰り、撚糸、機織り業が盛んであったと言います。愛川村で作られた生糸や撚糸、織物は、三増峠から八王子、青梅街道をたどり江戸へ向かったようです。
横浜が開港されると生糸は横浜から海外に輸出されるようになります。東北や群馬の生糸は倉賀野や関宿から利根川、江戸川をたどり東京、横浜に送られました。長野や甲府の生糸は甲州街道から八王子をたどり横浜を目指したようです。愛川村の生糸も浜街道(現在の国道16号線)をたどり横浜から海外に送られたのでしょう。
緩やかに舗装道路を登って行く道には古い民家が何件か、冬を前に薪などの片付けをしているようですが山里の生活はなかなか厳しそうなものがありそうです。
さらに登って行くとリッチランドです。温泉施設とキャンプ場があるところで夏には家族連れなどで賑わうところのようです。ヤマレコの山行記ではここから稜線へと登って行く山道があるようでしたが見付けることができませんでした。
明るい林道は法論堂(おろんど)林道です。かつて山伏が法を論じ合ったことから名付けられて所と言います。しばらく登ると道は通行止めのゲートです。落石があるようですが地元の車や自転車などは通行できているようでした。
たどり着いた半原越えには数台の車が停まっています。山仕事の軽四輪もありますが登山のため停まっている車もあるようです。
関東ふれあいのみちは左手の階段を登って行きます。杉林の中に続く木の階段は思いのほかの急坂で思わず息が上がってしまいます。しばらく登った稜線は今が紅葉の真っ最中、赤や黄色に色付いた梢の先に丹沢の山々が見え隠れしていました。
リッチランドへと下って行く道を左に分けさらに進むと土山峠への道を左に分けます。最近の丹沢は増えすぎた鹿やイノシシによる食害が厳しいようです。今日は鹿狩りが行われているのか赤いチョッキを着たハンターが鉄砲を抱え木の陰に立っていました。
斜面の先から猟犬の鳴き声も聞こえてきます。登山道を登るだけでも結構疲れますが、踏み跡もない山の斜面を上り下りするのはかなりの重労働、高齢化が進んでいると言うハンターの仕事もなかなか大変なもののようです。
雑木林の稜線を登って行くと革籠石山です。首に無線機を付けた黒い猟犬が後をついてきます。遠く、飼い主が呼んでいるようですが戻って行きそうになりません。狭くなった稜線の階段は登ることができないようでかなり苦労をしていました。
山岳修験道のはなしと題された案内板が立つコブは秋葉山、細野から登ってくる道を合わせるところです。この山域は八菅修験道の行者道があったと言うことで修験道の案内板が建てられているようですが、実際の行者道は30カ所の行場を1週間ほどで歩くもので、八菅神社から荻野高取山、華厳山、経ヶ岳をたどり煤ヶ谷へ、さらに辺室山、大山三ツ峰をめぐり大山、大山寺に至る53kmほどの修行道と伝えられているようです。
ここからは細い稜線歩きです。途中左手が切れ落ちた痩せ尾根を進むと固定ロープが張られた岩場です。太いくさりも張られていましたが雨などの後は少し危なげなところでした。
たどり着いた仏果山の山頂はたくさんのハイカーで賑わっていました。高取山側から登ってきた人が多いようで山頂のベンチでお弁当を広げていました。
ふれあいの道はここから半原へと下って行きます。山頂にあったふれあいの道の道標では半原まで3.9kmとか、途中にあったススキの原からは曇りがちな秋空の下に広がる相模原周辺の街並みが広がっていました。
宮沢大橋からホタルの里の看板が立てられた集落の中を下って行くと半原神社です。目指す半原バス停のロータリーにはバスが止まっていました。