山角天神社は童謡「通りゃんせ」発祥の地ともいわれている神社です。
創建の年代は不明です。木造のご神体に永禄4年極月吉日とあることから、室町時代後期よりも前であることは推察されています。かつては別当寺だった三光寺の什宝で、北条氏康が奉納したといわれる「いかり天神」の姿をした藤原道真画像(小田原市の重要文化財)があります。
境内には、日露戦争で活躍した瓜生海軍大将之像や、松尾芭蕉の歌碑、紀軽人狂歌碑などがあります。
瓜生外吉は日露戦争の仁川沖、蔚山沖、日本海の各海戦で活躍し、1912年に海軍大将に昇進しました。大正2年(1912年)山角天神の西に200mほどの高台に別荘を設けました。誠実な人柄が市民に敬愛され、海を眺めての小田原の生活をこよなく愛したと言います。山角天神社の坂道は瓜生坂と呼ばれています。
通りゃんせは江戸時代に歌詞が成立したとされるわらべうた、発祥の地としてはここ山角神社のほか、国府津の菅原神社、川越市の三芳野神社が舞台であるという説があります。歌詞については神隠し、人柱、埋蔵金伝説がありしばしば小説や映画、ドラマ、ゲーム等の創作の題材として取り上げられているようです。
平安前期の公卿、学者、文人。845~903年。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を押さえるため藤原基経の死後蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されましたた。延喜元年(901年)藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され配所で没しました。
のちに天満天神として崇拝されました。
1515~1571年、戦国時代の武将。後北条氏第3代。北条氏綱の子。1551年、扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越に破り、1561年の小田原城の戦いでは上杉謙信を敗走させた。伊豆・相模・武蔵・上野を領有し後北条氏の全盛期を築いた。
1644~1694年、江戸中期の俳人。伊賀生。北村季吟に貞門派を学び、江戸に下って談林派の感化を受ける。のち数度の旅を通して俳諧に高い文芸性を加えた蕉風を確立する。紀行に「野ざらし紀行」「笈(おい)の小文」「更科紀行」「奥の細道」、日記に「嵯峨日記」など。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。
1487~1541年、戦国時代の武将。後北条氏第2代。早雲(伊勢宗瑞)の子。1524年(大永4)江戸城に扇谷上杉朝興を攻め川越城に敗走させて武蔵に進出した。鎌倉の鶴岡八幡宮の造営した、
上杉重顕を始祖とする上杉氏諸家の一つ。戦国時代には河越城に本拠を移し、武蔵国を拠点とする大名となり、南関東に勢力を扶植した。山内上杉と並び両上杉と称されるが、関東管領を務めたことはない。鎌倉の扇谷に屋敷を置いたことが家名の由来。
室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ。足利尊氏・直義兄弟の母方の叔父上杉憲房の子で、上野・越後・伊豆の守護を兼ねた上杉憲顕に始まる家で、鎌倉の山内に居館を置いた。関東管領職も務めた。
伊勢宗瑞(北条早雲)を始祖とし、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模の小田原城を本拠として関東に雄飛した戦国大名。北条早雲は1476年(文明8年)に今川家内紛の調停役として歴史の舞台に登場した。
やがて駿河の興国寺城主となり、1491年(延徳3)には足利茶々丸を討って伊豆を平定し韮山城に移る。1495年(明応4)小田原城に大森藤頼を攻めてこれを奪い関東進出の第一歩をしるした。