社伝では景行天皇の時代(71年~130年)に天穂日命を祀る神社として創建されたと伝えられ、当初は礒部明神といった。
南北朝時代初期に桐生綱元が現在の地に移し、菅原道真を合祀して天満宮となった。現在の社殿は1789年に建造されたものです。
一の鳥居からは石畳の参道が続いています。境内には織神神社、財福稲荷神社などの境内社が並んでいます。織神神社は織物や養蚕が盛んであった桐生の街に地なんだ神社なのでしょう。
社務所の傍には宝船神社があります。神道七福神総社として大国主大神をはじめとする七柱を合祀したものと言います。
神門をくぐると拝殿です。その奥には精緻な彫刻が施された本殿があります。拝殿の奥に幣殿、本社が続く権現造の社で北関東の近世神社建築の特徴をよく示したたものとされています。
本殿の裏には春日社があります。現地の案内板によると室町時代後期の特徴をよく残している社で桐生市の重要文化財に指定されていると言います。広い境内に摂社などたくさんの楽しみが詰まった神社でした。
日本神話に登場する神、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子供です。天孫降臨に先立って葦原(あしはら)の中つ国に遣わされたが、大国主神(おおくにぬしのかみ)に味方して復命せずのちに大国主神の祭主を命じられたと言います。出雲(いずも)氏、土師(はじ)氏らの祖先神です。
平安前期の公卿、学者、文人。845~903年。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を押さえるため藤原基経の死後蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されましたた。延喜元年(901年)藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され配所で没しました。
のちに天満天神として崇拝されました。
本殿と拝殿とを石の間または相(あい)の間でつないだ神社建築様式。平安時代に始まり桃山時代から盛んになりました。日光東照宮本殿が代表的で東照大権現の名をとって権現造と言います。
平安前期の公卿、学者、文人。845~903年。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を押さえるため藤原基経の死後蔵人頭(くろうどのとう)に抜擢されましたた。延喜元年(901年)藤原時平の中傷により大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷され配所で没しました。
のちに天満天神として崇拝されました。
日本神話で高天原(たかまがはら)の主神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の娘。太陽神であり皇室の祖神として伊勢神宮の内宮に祭られています。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)の乱暴に天の岩戸にこもり国中が暗闇になったという岩戸神話や孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国に降臨させた天孫降臨の神話が知られています。
出雲神話の神。素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子または孫です。少彦名神(すくなびこなのかみ)とともに、中つ国の経営を行っましたが、天照大神(あまてらすおおみかみ)の使者が来ると国土を献上してみずからは隠退しました。
大黒天と同一視されるようにもなりました。因幡(いなば)の白兎の神話は唱歌にも歌われています。