東京駅9:25~日本橋9:40~京橋~銀座~日比谷神社10:30~愛宕神社10:50~芝公園11:20/30~増上寺11:40~芝東照宮11:55~田町掛けそば12:25/35~亀塚13:00~高輪大木戸跡13:25~泉岳寺13:40~高輪神社~八山橋~品川神社・御嶽神社・富士塚14:30~本光寺~海晏寺15:05~鈴ヶ森刑場跡15:40~磐井神社15:55~平和島駅16:15
五畿七道は律令時代の日本の行政区画、畿内を中心とし地方の国府などを結ぶため、東海道、東山道(とうさんどう)、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道(さいかいどう)の7本の街道の整備が進んでいました。
江戸時代になると日本橋を起点とし東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の五街道の整備が行われました。
慶長9年(1604年)には徳川秀忠により一里塚、宿場、関所が整備されました。東海道は行政の中心となる江戸と京都を結ぶものとして最も重視され、寛永元年(1624年)の時点で53カ所の宿場が整備され、東海道53次と呼ばれるようになります。
東海道は約492km、江戸時代の人たちは、この長い道のりを約半月近くで歩いたと言います。1日当たりの歩行距離はおよそ30km以上、途中には箱根八里や大井川の難所などもあり、かなりの健脚であったのでしょう。
どの道をどこまで 歩けるか、東海道の起点日本橋から歩き始めてみることにしました。
東京駅は通勤の人で賑わっています。また、新型コロナの感染も収まっていることから海外からのお客さんの姿も多いようです。
まずは日本橋へ、ここは日本の道路源標ということで橋の中央には源標が埋め込まれていました。ここから横浜までは29km、第一京浜(国道15号線)での距離ということでしょうが少し短めのような気がします。
童謡にも「お江戸日本橋七つ立ち・・・」と歌われていますが、早朝の4時に日本橋を出発した旅人は午後6時ころまでに戸塚宿または保土ヶ谷宿に宿をとったと言われています。日本橋から戸塚間は42km、途中には権太坂の登りもありなかなか大変な旅の始まりであったのでしょう。
ビルが立ち並ぶ国道沿いに道を歩くと京橋、さらに歩くと銀座です。銀座発祥の地の案内板には慶長17年(1612年)銀貨幣鋳造の銀座役所を設置したのが町名の始まりと紹介されていました。
土橋を超えると新橋駅、その先には日比谷神社の赤い鳥居があります。ビルの谷間に祀られた稲荷神社ですが境内には古い石碑などもあります。幾度かの移転を繰り返しながらその歴史を刻んできたのでしょう。
ここからは第一京浜を離れ愛宕神社に向かいました。急な石段は曲垣平九郎が馬で登ったとされる出世の石段、講談でも語られていると言います。
愛宕山は標高26メートル、自然の地形では都内で一番高いところと言います。境内には三角点のマンホールが置かれていました。
またここは日本のラジオ放送発祥の地。大正14年(1925年)7月、愛宕山でラジオの本放送が始まったと言います。近くにはNHKの放送博物館がありました。
芝公園に向かう途中に青松禅寺があります。本堂の左右に近代的様式の観音堂や座禅堂がある禅宗寺院です。
座禅や正法眼蔵の勉強会、獅子吼林サンガなど禅の教えを学ぶ道場のようなお寺でした。境内の奥には見上げる法輪大観音がありました。
芝公園には徳川将軍家の菩提寺、増上寺があります。広い参道の奥には東京タワーを背にして大きな本堂がありました。ここには2代秀忠公をはじめとして6人の将軍の墓所があるところです。
本堂の傍には光摂殿や慈雲閣(開山堂)があります。東京を訪れる外国の観光客も訪れるところのようです。
増上寺の傍には芝東照宮があります。日光東照宮、久能山東照宮、上野東照宮と並ぶ4大東照宮の一つとされています。家康の姿を刻んだとされる寿像は家康の死後、増上寺の安国殿に祀っていました。明治の神仏分離令により増上寺から離れ芝東照宮となったと言います。
家康の姿を伝える絵や像にはしかみ像や、岡崎城公園の家康像などがあるようですが、寿像は晩年の家康の姿を伝えるものであったのでしょう。
田町駅付近で第一京浜と合流、国道沿いには御田八幡宮があります。ここは武蔵国荏原郡 稗田神社の論社の一つとか、また嵯峨源氏渡辺一党の氏神として崇敬を集めた神社です。渡辺一党には今昔物語に登場し大江山の鬼の棟梁・酒呑童子を退治する渡辺綱がいると言います。
さらに国道を進むと高輪の大木戸です。江戸の南の出入り口として設けられた木戸で明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて治安の維持と交通規制の役割を果たしたところです。
少し道を間違いましたが高輪泉岳寺へ、ここは浅野長矩、大石内蔵助ら赤穂義士の墓があるところです。赤穂義士が本所松坂町の吉良上野介邸に討ち入ったのは元禄15年12月14日、吉良上野介を打ち取り泉岳寺の浅野長矩の墓前にその首を供えたと言います。
本所松坂町は現在の墨田区両国3丁目付近、泉岳寺までは第1京浜経由で9kmの道程であったようです。赤穂の浪士もこの道を通っていたのでしょう。
東海道線に新たに開設された高輪ゲートウェイ駅、駅前の開発は現在も継続されているようで見上げるクレーンが数基建っています。高層ビル群とともに駅が本格開業するのは令和6年(2024年)となっているようです。
新八山橋を超えると品川神社があります。
ここは品川富士と呼ばれる富士塚がある神社です。富士講は先達に率いられ富士山の登拝を目指すもので江戸中期に盛んになります。しかし体力的にもすべての人が富士山に登れたわけでなく実際に山頂へ登れなかった人のため、村内などに富士塚と呼ばれる遥拝所が設けられました。品川富士は都内七富士の一つ、東京都内には70か所以上の富士塚があると言います。現在でも富士山の山開きに合わせ7月1日前後に、講員一同が白装束に身を包み登拝を行っている富士塚もあると言います。
品川神社は大きな境内の神社です。元准勅祭社として東京十社の一つです。 また東海七福神の一社として大黒天を祀る神社です。
東海七福神は京急大森海岸駅周辺の5kmほどの七福神めぐりのコースで元旦から成人の日まで御開帳されていると言います。
品川神社の境内には阿那稲荷神社があります。上社、下社に分かれ下社には一粒萬倍の泉があります。鎌倉の銭洗い弁天のように笊が用意され小銭を洗って持ち帰るようになっていました
品川神社からは再び第1京浜に沿った道を横浜へ、ビルの背丈も低くなってきます。京急線の青物横丁は江戸時代からの青物市場で近隣の農家が大八車で収穫した野菜を持ち込んだとされています。
さらにしばらく歩くと鈴ヶ森の刑場跡です。日光街道に設けられた小塚原の刑場とともに、江戸の南側に設けられた刑場、慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥や平井権八、天一坊、八百屋お七がここで処刑されたとされています。
磐井神社は武蔵国における総社八幡宮であったという古刹です。鈴ヶ森という地名はこの神社に伝わる鈴石によるもの言います。
東海七福神の恵比寿天を祀る神社で境内にはたくさんの鯉のぼりが泳いでいました。
大森神社は寄来神社とも呼ばれる神社です。祭神の久久能智命は古事記や日本書紀に登場する神、林業の神と言いますが境内にそれらしい痕跡はありません。何かの改修工事が行われているようで、境内には工事用の白いキャンバスが張られていました。
帰りは京急の平和島駅、物見遊山が多かったのか日本橋からの歩行距離は20kmになろうとしていました。