54番札所延命寺の山門で色々教えてくれた人の話では最初に高野山で最初の納経所をもらい、最後に金剛峯寺で納経をもらうと良いとか。お礼参りは一番札所の霊山寺かと思ってみましたがこんな廻り方もあるようです。
高野山へと登って行く狭い国道も土砂崩れでの道路の付け替え工事のためか、片側通行となっているところが彼方此方にあります。
たどり着いた大きな駐車場に車を停め奥ノ院の参道へ。高野山は弘法大師が眠るところです。
暗い杉木立の中には企業や著名人、戦国大名などの墓が立ち並んでいます。豊臣秀吉や加賀前田家の大きな墓、比叡山を焼き打ちした織田信長の墓もあるのですね。
奥ノ院に参拝したのち大きな納経所で納経をしました。
納経寺の傍には頌徳殿(しょうとくでん)という建物がありました。ここは休憩所として開放されているところで奥には大きな竈、その上には熱いお茶が入った茶釜が湯気を上げています。
境内は今が紅葉の真っ最中です。赤く色付いた紅葉が朱塗りの欄干に映えまさに絵のような景色です。小さな流れにサラサラ揺れる紅葉もまた綺麗なものでした。
最後の納経は金剛峯寺です。お礼参りは高野山という習わしがあるようですが、一番札所の霊山寺で買い求めた納経帳には霊山寺でお礼参りするようになっているようです。なかなか面白い話ですね。
金剛峯寺は高野山真言宗の総本山で高野山真言宗の宗務を司る宗務所が置かれたところです。境内には主殿をはじめ奥書院、経蔵、鐘楼などの建物のほか蟠龍庭(ばんりゅうてい)という庭園もあります。以前ここを訪ねた時はシャクナゲの咲く時期で、小さな池の傍のシャクナゲが盛りだった記憶が残っています。
金剛峯寺で最後の納経です。納経所を受けていただいたのは若い女性、かなりの達筆です。秩父、坂東、西国と観音霊場を廻ってきましたが、古い歴史があるためなのか四国八十八ヶ所の納経所は達筆の方が多いようです。
真言宗の宗派である。総本山は金剛峯寺。高野宗・高野派とも呼ばれる。全国に約3700の末寺がある。
平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。
大乗仏教の仏。西方の極楽浄土の教主で生あるものすべてをすくう仏様。念仏により浄土に往生できるという阿弥陀信仰が鎌倉時代にさかんになり、浄土宗、浄土真宗、時宗などの浄土教宗派が成立した。
阿弥陀如来像は質素な形で如来の通相と呼ばれる姿をしています。小指を除く三指と親指で輪にした九品来迎印(くぼんらいごういん)を結んでいるのが特徴です。
平安時代の僧。真言宗の開祖。最澄と並ぶ平安仏教の確立者。15歳で母方の伯父阿刀大足(あとのおおたる)について京都へ遊学。延暦23年(804年)入唐し翌々年帰朝。高野山に金剛峰寺を建立し東寺(教王護国寺)を真言道場とした。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
法然上人の弟子の親鸞上人を開祖とする浄土教の一派。浄土三部経を所依の経典とするが、特に無量寿経により阿弥陀仏の本願の信心を重視し、称名念仏は仏恩報謝の行であるとするのを宗旨とする。門徒宗、一向宗とも呼ばれます。
1534~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。織田信秀の子。桶狭間に今川義元を討って尾張一国を統一。京都に上って比叡山を焼き、浅井氏・朝倉氏を破り、将軍足利義昭(あしかがよしあき)を追放、武田勝頼を三河の長篠に破った。中国出陣の途中、京都本能寺で明智光秀の謀反にあった。
1536~1598年、安土桃山時代の武将。織田信長に仕え戦功をたて羽柴秀吉と名のった。信長の死後、明智光秀・柴田勝家を討ち、ついで四国・九州・関東・奥州を平定して天下を統一した。
天正13年(1585)関白、翌年太政大臣となり豊臣を賜姓。検地・刀狩りなどを行い兵農分離を促進した。明国征服を志して朝鮮に出兵したが戦局半ばで病没。茶の湯などの活動も盛んで桃山文化を開花させた。
1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。
1546~1582年、戦国時代の武将。武田信玄の子。信玄没後家督を継ぎ美濃・遠江・三河に進出したが、長篠の戦いに大敗。以後衰運をたどり織田・徳川軍に追い詰められ天目山麓で自刃、武田氏は滅亡した。
1528~1582年、戦国・安土桃山時代の武将。美濃の生まれ。織田信長に重用されたが、1582年6月2日、京都本能寺に信長を襲い自害させた。山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ逃走中土民に殺された。